2013年9月28日土曜日

セレンディピティとは発見の力ではなく解釈の力? -情報のインプットと解釈 について再考-

少し、情報のインプットと解釈について再考したい気分。結構当たり前な話かもしれませんが。

まずは、情報を扱う目的から改めて考えます。今回、目的は、ビジネス、特に新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような場合に絞ります。

新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような際に、必要なこととしてよく言われることは、「問題発見」や「問題解決」ではなく、「問題設定」そのものである、ということです。今ある問題整理のフレームワーク、業界の構造、そういった既存の枠組みを前提にした発見と解決を是とするのではなく、その枠組み自体を見直し、問題そのものを定義・設定するという考え方です。

「問題発見」も「問題設定」も、目の前にある事象や耳にした事象をインプットし、解釈して、思考するというプロセスにおいては、いずれも情報処理であると言えます。では、問題発見で留まるか、問題設定まで遡れるか、何がそれを分けるのかということが次に問題となります。

情報という観点では、既存の枠組みで考えるということは、意図的なものの見方による「意図した情報」と言い換えることができそうです。これが問題発見的アプローチ。一方で、既存の枠組みでは解釈が難しい情報は「意図しない情報」となります。これが問題設定の源泉。一方で、問題発見であろうと問題設定であろうと、その情報が「有用か」「有用でないか」という軸があります。わざわざ図にするほどでもないですが、以下のような感じ。



このマトリックスで考えると、問題設定に求められる情報は、いかに右上のオレンジ枠の「意図しない有用な情報」を扱えるかということだと思われます。わかりやすい言葉で言うと、セレンディピティ(Serendipity)でしょうか。ただ、ここで気にしなくてはいけないことは、人の情報処理における一次的なインプット段階において、情報は一旦ブルーの枠に放り込まれるということだと思います。まあ考えれば当たり前なのですが、左下のグレーの枠は意図している枠組みの中で有用ではないものなので即オミットできますし、右上のオレンジの枠は意図していない訳なので最初は有用性に気付かずいきなりここに入ってくることはない。

そう考えると、オレンジ色の「意図しない有用な情報」を扱うということは非常に高度な技術であることがわかります。なぜなら、意図していない、枠組みの存在しない中に飛び込んできた情報に、縦方向の有用かそうでないかの「解釈」を入れる必要があるからです。しかも、その「解釈」は単純にAだからBといったような線形なものではなく、循環したり、ジャンプしたり、クロスしたり、アナロジーだったり、うまく言えないですが「発想」のようなものが加味されたものになります。

最近まで、私の中ではオレンジの枠を増やすためには、いかに自分の専門外や一見関係なさそうな情報に触れる機会を作るかとか、いかに全く世界の異なる人に会うかとか、その量を増やすために、情報の種類やカバーを意識してきていたように思います。つまり、オレンジの枠にいきなり放り込むことを考えていたのかと。もちろん、そういった機会を作ること自体は重要です。それがないと情報が全く入ってこなくなるので。

一方で、アンテナを張るということそれ以上に、入ってきた情報をいかに丁寧に色々な角度から解釈するかということの方が重要なのではないかと考え始めています。つまり、右下のブルーから右上のオレンジに情報を移す作業に時間をかけるということです。時間は有限で、ゴールはオレンジの枠を増やすことですから、むしろ情報ソースを減らすことで解釈に時間や意識を集中するということも一手なのかもしれないなと思っています。

ここで改めてタイトルのセレンディピティ(Serendipity)という言葉に触れますが、これまで書いてきたような文脈で、意図しなかった意味あるものとの遭遇、という意味合いでよく使われる言葉です。Wikiによると下記の意味合いだそうです。
セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。
まあ、表層的な現象だけ捉えると「見つける」という「発見」の力なのですが、その本質は上述のようにブルーからオレンジに持っていく「解釈」の力なのではないかなと思ったり。

最後に、「解釈」の力が、「意図しない有用な情報」の取り扱いやセレンディピティにおいて重要だというと、陥りそうなジレンマについて。そのジレンマとは、解釈というものは、そもそも自分の中にある既存の枠組みや思考に規定されがちということです。右下に入ってきた情報を解釈しているうちに、左上とか左下とか既存の枠組みの中に無理やり情報を押しこむ解釈するという、本末転倒な結果に陥る可能性があるということは、かなり意識しないといけないポイントなのかと思います。
(これを防ぐには何が必要なのかというところが鍵なのですが、まだ考えがまとまらないため、結論のないまま今回は終わります)

2013年9月23日月曜日

フラットで多様性のある組織 -マンション管理組合に考える新しい時代の組織論-

実は最近マンションの管理組合の手伝いをすることがあって、色々と考えさせられることがあります。いや、まあ一番は、面倒くさい、ということなんですが(笑)、それでも一つの経験かなと思って色々と観察(?)をするようにしています。

いくらか管理組合に関わってみて思ったことは、管理組合というのは、多分世の中で最もマネージすることが難しい組織の一つなのではないかということ。難しくしている要因は、その構成員の多様性と全員平等というフラットな組織構造にあります。

さて、ビジネスにおける一般的な組織論として、大企業的なピラミッド型の組織や古いヒエラルキーはこの変化に富み先の見えない世の中では古い、これからは、多様な人材一人ひとりが何かのプロフェッショナルとしてチームを構成し、フラットな関係で仕事をする時代だ!みたいな論があり、イメージとしてはそれって理想だよねと思っている人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人。響きはいいんですよね、「フラットで多様性のある組織」。ただ、そのような論自体は特に新しくもないわけですが、意外とそのような組織転換をしてうまくいっているケースを周りではあまり聞かないです。(本当のプロ職で構成される業界では、過去から含め例はいくらでもあるのだと思いますが)

そこには「フラットで多様性のある組織」のマネージが難しい要因があるのではないか、そういえば、マンション管理組合ってまさに「フラットで多様性のある組織」ではないかと。ビジネスとはフィールドは異なれど、何かしらの目的を持って運営されている組織としてどうなの実際はということで、管理組合の組織としての特徴に関する観察結果を整理してみます。加えて、今後の組織のあり方について考える際の共通項も(⇒で記載)。

・構成員がとにかく多様
年齢や世帯構成、収入、買った時期、保有の目的(投資、住居、事業用など)など、とにかく構成員の属性や背景がバラバラ。一つのこと決めるにもあまりに多様な見方や意見があります。中古は特に。

⇒多様性をうまく活かす方法にはどのような組織が最適か?

・民主的な(衆愚的な?)意思決定
様々な議決事案に対して、住民は基本的に全員平等に一票ずつ。良く言えば民主的な意思決定ではありますが、一方でフラットで合議的な意思決定の難しさがあります。衆愚というと言い過ぎかもしれませんが、本当に色々な人がいるので、論理ではなく感情や感覚論で意見が飛び交うこともしばしば。また、昔から住んでいるとか地域に顔が効くとか、声の大小も結構ある。
結局議論を尽くしてというよりも、多数決で物事を決めざるを得ない状況も多く、不満や議論で戦ったしこりが残ることもあります。逆に、規約にもよりますが、3/4以上の賛成がないと決められなかったり変えられなかったりする事案もあり、意思決定が不全に陥る可能性もあります。

⇒全員がイコールパートナーの組織における意思決定の最善解はあるのか?

・責任だけで権限のないマネジメント
管理組合で言うと、理事会や委員会(修繕委員会など)がある種のマネジメントチームとなるでしょうか。理事会の専任事項については責任と権限が伴うのですが、組合の総会に諮らなくてはならない事案については、マネジメントチームで方向性は出すものの、総会で否認されればボツ。責任はあるものの権限はないに等しいケースも多々。
そして、そのマネジメントチームとして働くインセンティブはと言うと、有形の報酬はおろか無形の報酬もないのが実態かと。名誉職か輪番でお鉢が回ってきていやいやがほとんど。

⇒全員がイコールパートナーの組織におけるマネジメントとは?責任と権限、報酬の設計は?

・参加者が固定化される会議体
組合の総意で決定すべき事案がある場合など総会が開催されるのですが、ここに参加するメンバは割合固定化されていきます。やたら積極的で意見をばんばん出す人と、全く関心のない人と二極化。一方で、大規模修繕など、大きな金銭が関わる事案にはいつもにない人数が参加する。つまり、人は結局自身が関心あること、自分にとって重要だと思われること、影響の大きいことには関与をしたがるということ。(利己的な人に)より積極的に関与してもらうためのアジェンダ設定が重要。

⇒個の自律的な関与を促す会議体やアジェンダの設計は?

・教育ができない
管理組合には、当たり前ですが、普通の組織にあるいわゆる教育という概念がありません。多様性の記述とも重なりますが、本当に良くも悪くも色々な人がいるので、構成員のマンションに関する知識や資産・金銭に関するリテラシーは千差万別。また、ビジネスであれば知識の多寡はあれど論理と言う共通言語がありまともな議論がしやすいですが、これも人それぞれ。かと言って、構成員のレベルを上げよう、という教育はほとんどできず(説明会くらいの表層的なものはありますが)、自主的な学習にゆだねるしかないのが実情ではないでしょうか。

⇒知識やスキル向上に対する強制力がない中で、教育から学習へのシフトは可能か?

・ナレッジの蓄積が困難
組合活動に参加する人の偏りも理由の一つですし、理事会メンバになる人が持ち回りであること、あるいは大きな事案(例えば大規模修繕)などは頻度がさほど高くないため前回担当者が既にマンションを出ていたり高齢になっていたりすることなど、組合運営のナレッジが蓄積しにくい環境があります。マンション管理組合はある種それを商売のタネにしているところもあって、うまく情報の非対称性を残しつつ、アウトソースのうまみを得ている構造もあります。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どのようにチームとしてのナレッジを蓄積するか?

・全員が兼業
マンションの住人は、当然皆、会社員から主婦まで自身の主たる顔があり、組合活動は専務ではなく兼務となります。本当は大きな資産のはずで優先度は高くあるべきにも関わらず、組合活動はかなり生活の中におけるOne of them感があります。これを、どうバランスするか、時間を作るか、インセンティブを持ってもらうか、結構難しい課題です。

⇒並行して複数のプロジェクトを持つプロ同士が集まるチームの時間の作り方や関与のインセンティブは?

・短期的な視点への偏り
多様な立場の構成員からの声をまとめ、合議的に議論を進めると、どうしても確かなゴールを共有できる短期的な施策に議論が陥りがちです。マンション保有の目的が異なり、この後保有する期間も人それぞれであるため、どうしても不確かな未来の話は先延ばしになりがちです。本来は、ただのメンテナンスだけではなく、資産としてのバリューアップも組合は検討すべきなのですが。法人でいうところのミッションや中長期でのビジョンを描きにくい(というか持っていない)のです。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どうすれば共通の「大きな」ゴールを持ち中長期的な視点で取り組みを進められるのか?

・利己的な考えがベース
利他と利己という考え方がありますが、どうしても利己的な考え方に陥りやすいように感じます。まずベースとして多様な赤の他人同士、会社以上に他人への理解と寛容が難しい。また他人に積極的に関与することが良いのかという共通認識が得られにくい問題もあります。さらには、会社と違って皆の目的が一つではないので、その目的のもとに名目上一つになって利他的に動くことを強いるのも難しい。
会社でも程度の差はあれこれらの状況はありますが、ただあまりに利己的な人は周りの目もあり相当働きづらいし、会社は人事というパワーを持つのである程度秩序が保たれます。一方、マンションでは他人の目はあり交流がなくなり住みにくさはあっても、別に孤立さえ受け入れられれば暮らし続けることは全く可能です。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、チームとしての最適をどのように追求できるか?(利他がいいのか、利己でもいいのか)

・(番外編)場外での工作
何かの事案の決議において、組合の総会では不参加の人は委任状を出す(同じ住民の誰かに委任、白紙なら理事長に委任が一般的?)という制度があります。これを、自分にとって都合の良い結論に持っていくために、自分の住民ネットワークを使って委任をうまく集める人がいるんです。ちょっとした工作ですね。

⇒よりメンバの動きに目の行き届かなくなる組織形態において公正さや秩序をどのように保つか?(既存の組織形態でも意思決定における場外での工作は公然とあるわけですが)


書いていたら長くなりました。別に管理組合への不平不満があるわけではありませんので念のため(笑)

結構、今後新しい組織やチームのあり方、個々人の関わりのあり方を考える上で、共通的な課題がありそうな気がしています。「フラットで多様性のある組織」でうまくやっている例はないか、少し探してみたいなと思います。

2013年9月4日水曜日

差別化のジレンマ -差別化も行き過ぎると類似性に目が行く-

「過ぎたるはなお及ばざるが如し」というのは、ビジネスにおける商品やサービスの「差別化」についても言えるようです。感覚的にはまあそうだろうなというところですが、わかりやすくまとめられていた記事があったので簡単に引用して備忘的に考察。

引用するのは、ハーバード・ビジネススクール教授ヤンミ・ムン氏の著書『ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業』を紹介したDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの記事。「棚に並ぶシリアルは、どれも同じに見える」とか「激しく競うほど、互いの違いは小さくなる」とか。

記事では、「差別化」について次のように述べられています。
企業は一丸となって競い合ってはいるが、意味のある違いを生み出すという使命を見失っているように見える。激しく競えば競うほど、互いの違いは小さくなり、精通したプロでなければ見分けがつかなくなる。要は、類似性ばかりが目につくのだ。消費者の心の中では製品の区別がつかず、まぜこぜになっている。
卑近な例で言うと、私も先日久々に食パンを買いに行くことになってスーパーでパンコーナーに立ったのですが、(普段自分で買わないのもあって)本当に違いがよくわからなくて暫し立ちつくし、結果普通な品質そうで一番安いものを選択したということがありました。コモディティだからと言ってしまえばそれまでなのですが、ポイントは食パンメーカーは差別化をしていないのではなくて、競合がお互いに差別化を検討しまくった結果、現状のような似たり寄ったりな状態になっているということです。

差別化をするということは、その分、差別化すべきポイント(つまり顧客が判断すべきポイント)が増えるということです。単純化しますと、食感で差別化できていたけど競合にキャッチアップされたから忙しい朝食シーンを想定して食べやすさで差別化しよう、おっとまた競合がキャッチアップしてきたから今度は健康をアピールできる成分で・・・というような感じで、次々と差別化ポイントが増える。

これは差別化ポイントが増えると同時に、キャッチアップされて同等になった類似点が増えてきているということを意味します。つまり、最初は差別化ポイントの方が目立っているのですが、次第に類似点が目立ってきて、合わせて差別化ポイントそのものの顧客から見た重要度が下がってくる(どうでもいいポイントで差別化するようになる)という現象です。

このような企業側からした目線に加え、ヤンミ・ムン氏は「プロは違いに注目するが、素人は類似点に目が行く」という表現を使って顧客側の目線でも差別化の罠を表現しています。テクニカルな差別化に走る企業側、それを見極められない顧客側、双方の理由から差別化が行き過ぎると類似性に目が行くというジレンマが説明できます。

じゃあどうすればいいのかという点、もしかしたらこのシリーズの続きで明らかにされるのかもしれませんが、差別化という文脈で言うと「顧客にとって意味があり、他社にはキャッチアップできない差別化要因を見い出す」ということに尽きるのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎて、なんだそれは、なのですが、マーケティングの意味合いが矮小化され、手段としての「差別化」が目的にすり替わり独り歩きしていることも多いと思われる中で、本来の手段としての差別化の狙い(顧客にとって意味のある自社にしかできない価値を提供する)を改めて考える必要があるのではないでしょうか。

ただ、これ言うは易しで、しかも製品ライフサイクルの後期の段階でこれをやろうと思っても基本的には難しいのではないかと思います。製品を立ち上げる際に、コアの差別化要因として、そのような持続可能性の高い差別化要因を構築する必要があるということです。

では、既にある程度製品ライフサイクルが成熟の時期に差し掛かっていて、且つ競争環境が激しい場合はどうするか。これは「差別化」から「価値転換」へ戦略をシフトするしかないのではないでしょうか。既存のルールの中でしのぎを削るのではなく、新しいルールや枠組みを作るという転換です。例えば、パンで言えば、「栄養を取得するもの」から「忙しい朝をより充実したものにするもの」と価値自体を置き換える、あるいは、既存顧客とはニーズや利用シーンの異なる独居高齢者や老老世帯にとって価値のあるものを創出する、など。

私の今いる業界はBtoCではないのですが、それでも、差別化のジレンマ、競争市場での差別化の行き過ぎによる程度の低い価値訴求が割と蔓延してきていると感じていたところでしたので、ツラツラと書いてみました。

2013年8月23日金曜日

考えさせ、ただ見ているだけのマネジメント -『采配』を読んで-

最近組織や人の話がやたらと続いてしまっています。が、懲りずに続けます。

『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』といった以前のエントリで、「動機」や「意思」といったものについて考察し、それらを外から動機「付ける」ことや意思を「高める」ことなど可能なのかということを書きました。

もちろん人間なので誰しも圧力がかかれば最大瞬間風速的に動機や意思は高まるでしょうし、その効果は否定しませんが、それを持続的なものにするには「真に内発的な動機や意思」が必要なのではないかと考えています。どうも今流行りの「内発的」動機づけ理論はハードではなくソフトな手法を使っているだけで、まだ外発的な印象がするのです。それもあって、上記のエントリでは、「ハーズバーグの二要因理論」をヒントに、動機や意思を直接高めるのではなく、それらの発揮を阻害している要因を取り除くことが重要ではないのかという仮説を書きました。

「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」ということ以外に方法はないのか。

そんなことを考えている時に、前中日ドラゴンズ監督落合博満氏の『采配』を読みました。別に動機がどうとかいう目的で読んだわけではなかったのですが、示唆のある内容がありましたのでご紹介。

それは、落合氏の「選手に自分自身で考えさせる働きかけ」です。言葉にするとあまりに普通すぎるので内容を引用します。落合氏は中日ドラゴンズの監督の就任直後(秋頃)に下記のようなメッセージを選手に対して送ったそうです。
来年2月1日のキャンプ初日には紅白戦を行います。
私は野球にそこまで詳しくないので正しい説明ができるか自信はないですが、普通はオフシーズン明けはまずはオフになまった体の基礎を作り直し、各人の昨シーズンの課題に照らした練習を積んで実戦向けの状態を作り、今シーズンに向けての実戦練習として紅白戦をするというイメージです。それをなぜ最初にしたのか。落合氏のタネ明かしはこうです。
何か監督からの指導があるわけでもなく、いきなり紅白戦?
選手は色々なことを考えただろう。本当にキャンプ初日から紅白戦をやるのか。ただの脅しではないのか。初日から紅白戦をこなすためには何をすればいいのだろう。紅白戦の結果によって選手を振り分けるのだろうか。
私としてみれば、「新監督の謎めいたメッセージ」によって、選手たちが12月から1月の2ヶ月間、常に野球のことを考え、自分なりの準備に取り組んでくれればよかった。
何を隠そう、それが誰からも押しつけられたのではなく、自分自身で自分の野球(仕事)を考える第一歩だからだ。
(中略)
果たして、2004年2月1日に紅白戦を実施すると、選手たちはすぐにペナントレースが開幕しても戦える状態に仕上げてきた。
何というか、「動機付け」という行為はしていないのですが、選手が自分自身で考えるプロセスを通じて、結果として押しつけられずにまさに内発的に選手の動機が高まっている様子が窺えます。落合氏は「自分を成長させるのは自分しかいない」というような考えを持たれているようで、それがこのようなアプローチの背景にありそうです。

関連して下記のような記述もされています。
自由というものが最大の規律になる。
選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じ取ってやる。
私はコーチングの基本を「教えない。ただ見ているだけでいい」と定義した。実際に監督としてチームを預かることになり、「見ているだけのコーチング」が基本になることは確認できた。
自由ということを規律とし、自分で考えることを重視し、その考えを観察し感じ取る。適切なサポートをする。無理やり引き出すという感じではないし、押し付けもしない。そんなところが落合氏のチームや人のマネジメントの根幹にある気がします。

そして、動機の働く本質を「自分のことを自分で考えること」に置き、自ら考えるきっかけを与える「ゆらぎ」を起こすというやり方です。「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」のではなく、「機会を作ることで考えるきっかけを与え、目を配り、観察し、考慮する」という、手間はかかるがきめ細かで間接的なアプローチが有効なのではないかという仮説。そこには以前のエントリで書いた、動機や意思を発揮することを阻害する要因を取り除くことも含まれるのでしょう。

ただ、こういった方法論は、ある程度一人ひとりが自律的に動くことを求められるプロフェッショナル的な人材に対して特に有効な方法かもしれません。組織を選ぶ手法と言えるかも。手間もある程度かかりますし、その時間コストに対する大きなリターンが見込めるかどうかも重要なポイントかもしれないです。

どんな組織にも人にも適用できる方法論という考え方自体が間違っているのでしょうね、きっと。。

2013年8月12日月曜日

追補:能力と意思の暴走に理性の果たす役割 -『ノモンハンの夏』を読んで-

一つ前の『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』で、成果を決めるのは能力と意思で、どちらかというと意思が大事で、意思そのものを外発的に高めることって難しい(他の方法はないのか)ということを書きました。

その後にある本を読んで、この2つでは成果を上げるには必要であるが十分ではないと思うに至りました。成果を上げるために必要なもの、もう一つは「理性」です。「論理」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、いわゆる論理的思考力のような「能力」とは少し異なるニュアンスなので「理性」と書きます。

読んだ本は半藤一利の『ノモンハンの夏』です。1939年のノモンハン事件(Wikiにも詳しい説明あり)を描いたノンフィクション。多くの取材や文献をベースに関東軍の暴走が詳細に描かれており、ケースで読む意思決定の教科書と言ってもいい傑作です。中古で1円。。

・いかにして情報はゆがみ、誤った意思決定がされるのか
詳しくは一読いただければと思うのですが、関東軍の情報の主観的な選別、独善的な判断は相当にひどい。そして、陸軍としての下部組織(一出先機関)である関東軍をコントロールすべき中央のガバナンスもひどい。

著者半藤氏の関東軍への嫌悪感は相当なもので、その念みたいなものも一部感じられますが、私が読む中で拾った、関東軍の物事を進めるにあたっての誤った意思決定に至るエッセンスとして、思いつくだけでも下記のようなキーワードが挙がります。順不同。

まず根底にある独善的/主観的な情報への態度です。これらのバイアスが情報を適切に選別、分析、判断することをできなくしています。
思い込み、固定した先入観、都合の良い解釈、拡大解釈、楽観にすぎる見通し、実力の過信、弱みや現状の無視、主観的判断、過去の反省教訓化なし、自己正当化
次に、意図的/意識的な意思決定を曲げる行為。ここまで来るとバイアスということではなく、悪意のある謀略。
情報操作、意図的な情報選別、脅し、誘導、隠蔽、意図的に曲げた報告、見切り発車による既成事実化、越権行為
仕上げに、上記を加速/助長する組織文化。土壌として上述のような行為を看過する状態が出来上がります。
エリート「仲間」の馴れ合い、空気、誰が言ったかへの偏重

・能力と意思は暴走する
前のエントリに上げた、成果に必要なのは能力と意思という点。国力が当時どうだったかは置いておいて、関東軍に属した参謀たち(本件の主犯的人たち)は陸軍の中でもエリート中のエリートであり個人としての能力は文句なし、意思においても誤った方向ながら確固たる強い意思を持ち合わせていました。

では、なぜ能力と意思を押さえているのに成果(表現が難しいのですが、誤解を恐れず成果と書きます)が上がらなかったのか。また、成果が誤った方向に向かうのか。

意思と能力があれば、物事を進めたいとなるし、進められる。ここで重要となるのは、そのベクトルが正しい方向に向くか、手段は適切か、結果として方向性や手段が誤っている場合/失敗した場合に修正がきくか、だと思います。この役割を果たすのが「理性」、言い換えると客観的な「論理」であると思います。

本書の題材はかなり特異なシチュエーションと組織ですが、ビジネスにおける示唆もあります。ビジネスでもインパクトを追求する、未知の領域で新しいチャレンジをするには、不確実なゴールを追い、周囲の雑音をはねのけ、次々に訪れる様々な問題を解決して突き進む高い能力と強い意思が必要で、ある種の熱狂のようなものがそこには伴います。良い意味での暴走と言うか。むしろそうではないと新しく難しい問題には立ち向かえないこともあるように思います。

・理性を組織システムで補う
この「理性」を一人一人が能力と意思と合わせて三位一体で持ち合わせるのが理想だとは思います。ただ、上述のように、良い意味での暴走が必要となる場合、組織やチームとしてこの「理性」を担保できると強いのではないか。意思と理性の両立は思った以上に難しい。

ノモンハンの事例で言うと、組織のガバナンスが働かなかったことが悲惨な顛末を招いた要因の一つだと思います。それは関東軍の暴走を抑止できなかった、参謀本部の情報収集・分析の不足、監査の欠如(エリート間の妙な信用・馴れ合い)、権限・権力の適切な行使の欠如、組織構造ではなく人で動く意思決定、トップ層の原理原則のない意思決定などです。これらは能力がなかったということではなく、理性・論理を働かせる組織としての構造や態度がなかったということです。

・「誰が言ったかではなく何を言ったか」を根付かせる
ノモンハンの場合は上述したようにあまりに多くの暴走要因があったのですが、その中でも大きな影響を与えている、逆に言うとそれを克服できれば強力な歯止めになると思われるのは、「誰が言ったかへの偏重」であったのではないかと考えます。本書には、一部の「力」を持った陸軍エリートが意図的に情報の極解と独善的な判断をし、うまく陸軍という集団心理を悪用して押し切る様が克明に描かれています。これさえなければ、様々な情報への誤った態度や意思決定を曲げる行為の大部分は論理で抑止できたのではないか。

ビジネスでも、「誰が言ったか」に流されたり、もっと言うとその「誰か」に言わせることで社内を突破しようとすることもあるでしょう。私も正直に言って絶対ないとは言い切れない。これをいかに組織として「誰が言ったかではなく何を言ったか」をベースとできるかが肝だと思います。

DeNA南場氏の『不格好経営』でも同じような趣旨の記述がありましたね。
DeNAでは、「誰が言ったかではなく何を言ったか」という表現を用いて、「人」ではなく「コト」に意識を集中するように声を掛け合っている。誰かが言ったことが常に正しいと思ったり、誰かに常に同意するようになったら、その人の存在意義がなくなるし、”誰派”的な政治の要素ともなり、組織を極端に弱くする。
もちろん「理性」を個人で担保できれば、それにこしたことはありません。自分を常に客観視できる力。理性を意思と両立できるかは相当に高度な素養ですね。修練修練。。

2013年8月9日金曜日

成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-

最近、成果を上げている人、そうでもない人、その違いは何かと考えることがあります。成果を上げるために必要なもの、大きく分けると「意思」と「能力」だと思っているのですが、成果を決めるのは、どちらかというと「意思」ではないか、というのが最近の感覚です。

■意思が成果を分ける
情報や訓練の機会が充実している昨今、ある程度のレベルの仕事をしている人たちの間で「能力」の差は実はあまりないのではというのが一つ。もちろんよっぽど特殊、専門的、あるいは経験(時間)が必要となる能力となると話は違うかもしれません。また、「能力」は低ければ高める方法は(その人にある程度のベースがあれば)ありますが、「意思」は周りが強制的に高めることはなかなか難しいのも理由です。

具体的に日常の業務で考えてみても、「今日やることはきちんと今日やる」というのが仕事のベースだとすると、これを「こなす」のは意思がなくとも能力だけで何とかなります。ただ、それでは誰でもできること(やるべきこと)です。

これが「今日やることの質を今日やれる中でギリギリまで高める(粘って粘って質を高める)」「今日やることはきちんと今日やるを毎日一日も欠けずに続ける(高い質をコツコツと積み上げ続ける)」「明日やっても済むことを今日やる(優先度は低いが重要度が高いものから目を逸らさずに取り組む)」ということになると、能力だけで何とかなる世界ではなくなります。ここには明らかに「意思」が必要です。そして、これが成果を分けるところではないでしょうか。

■意思を持って仕事をするためには、失敗に備える意思が必要
上述のように、質を高めるために「こなす」ことでは必要のないチャレンジをする、絶え間なく続けることで行動の総量が増える、放置しようと思えばできるものにあえて手を出す、ということをすると何が起こるかというと、失敗する可能性が高まるということが言えると思います。

「こなす」ことで済ませるということはすなわち、人は失敗のリスクを無意識に避けているのかもしれません。リスクに気付きながらもあえて「こなす」ことを超えようとするには「意思」が必要なのでしょう。そもそも失敗をリスクとするのかどうかですが、失敗することで人は学習し活動の修正をすることができますから、失敗をうまく活用すれば、これも結果としては成果を高めるということにつながっているとも言えます。

■意思を高めることは可能か
仮に意思が成果のために重要だとして、どうすれば意思の力が働くか。最初に意思を高めることが難しいと書きましたが、世の中、ソフト/ハードで意思を高めようとする施策が流行っているように思います。動機づけ、コミットメントなどといったワードが連想されますが、どのような対象に、どのようなきっかけで、高い動機を持ち力を注ごうとするのか、これは人によりけりです。

そもそも意思というのは自律的なものであり、仮に周囲に高められることがあったとして、それを意思と言うのかは疑問です。これは、以前『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』というエントリで論じたことに重なります。そもそも周囲に意思を高めることができるのか。表面的には高まっているように見えても、中長期的に見ると外発的な圧力で人工的に高まった「意思」によって本来のその人固有の意思が押し殺され、逆に意思の希薄化が起こるのではないかとさえ思います。

■意思の発揮を阻害している要因はないか
私の不勉強で世の中的には有名なのかもしれませんが、最近「ハーズバーグの二要因理論」というものを知りました。本旨ではないので簡単に説明すると、人の仕事に対する満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるという裏表の関係(例えば給料が高ければ満足、低ければ不満)ではなく、満足に関わる要因(動機付け要因)と不満足に関わる要因(衛生要因)は別のものであるとする考え方です。つまり、仕事にやりがいを感じているので満足しているが、給与的には不満、という状態があり得るので、それぞれ個別に手当をしないといけないという理論です。

動機付けという言葉が使われているので少しワードが混同して話をややこしくしているのですが、意思を発揮するという観点でも、二要因理論的な考え方は当てはまらないかと思ったのです。つまり、意思が低いから高めればいいという話ではなく、意思は本来あるがそれを別の観点から毀損している(発揮できなくしている)マイナス要因があるのではないかということです。それは上述したような失敗に対する回避的な意識かもしれませんし、重要度の高い仕事に取り組めないほどの優先度に偏った仕事の圧力かもしれません。

意思を高める施策というのは活況ですが、こういったマイナス要因を取り除いてあげることが必要なのかもしれません。何の根拠もないですが、現時点での雑感として。

2013年8月4日日曜日

好き嫌いの経営 -『経営センスの論理』を読んで-

『経営センスの論理』読了。著者の楠木建氏は『ストーリーとしての競争戦略』の著者で一橋大学大学院教授。前著がなかなか面白かった記憶があったので手に取りました。内容はAmazonの書評にあるように賛否ありそうな感じで、良くも悪くも、ユルくて軽い。もともとハーバードビジネスレビューのWEBサイトに連載していたコラムを再構成した内容ということもあり、理論とか体系立った分析ではなく、まさにセンスで書いた散文を寄せ集めた内容。通勤電車でサクッと読む感じが丁度良いです。

タイトルにある「センス」についてはあまり深堀りされておらず、そこは残念。まあセンスの話はセンスでしかできないみたいなこともあるのか、論理立てて文章にするというのは難しいのだろうと思います。

ただ、寄せ集めの文章ならではの良い面もあって、それは読み手の解釈次第で散りばめられているエッセンスから何らかの意味合いを勝手に見いだすことができること。個人的に、本書には、経営における「綜合的なモノの見方」を考えるエッセンスが色々とあったかな、と思います。著者は、経営には「アナリシス(分析)とシンセシス(綜合)の区別」が必要で、「戦略の本質はシンセシスにある」と述べています。分析的なモノの見方だけでは事業を動かすとか経営(的な動き)をするといった場合には不十分、ということは、非常に重要なポイントであるように思います。

少し話がそれますが、DeNA創業者南場氏の『不格好経営』にも、コンサル出身者が事業をやる側に回る上でアンラーニング(学習消去)すべき点として、「何でも三点にまとめようと頑張らない。物事が三つにまとまる必然性はない。」を挙げていました。これ見た時あまりに的を得ていて笑ってしまったのですが、経営における物事は、常に三つにMECEにまとめられるほど単純ではなくて、もっとダイナミックにつながり影響し合っているし、デジタルに一定の軸で分解できないごにょごにょっとした何かを含むやっかいなものである。無理やり三つにまとめるという行為は、まとめている(=綜合)のではなく分解している(=分析)にすぎないということを言わんとしているのだと私は解釈しました。裏返すと、経営や事業を動かすにあたっての綜合とは、そういった分析的行為とは似て非なるものだと。

話がそれたついでに、上記に並べて南場氏が書いていたコンサル出身者へのアドバイスとして面白かったのが「自明なことを図にしない。」「人の評価を語りながら酒を飲まない。」「ミーティングに遅刻しない。」です。いやー、もう耳が痛いですね(笑)

話を戻します。

本書にある、経営における綜合的なモノの見方のエッセンスとして私が特に気になったものは、「好き嫌いをどう経営に織り込むか」「商売は自由意志」という2点です。

「好き嫌いをどう経営に織り込むか」について、どう織り込むかの解(方法論)はありません。著者は下記のようなことを言っています。
会社内での議論や意思決定では、好き嫌いについての話は意識的・無意識的に避けられる傾向がある。好き嫌いはあくまでも個人の主観だ。会社内での何らかの判断が必要となったとき、好き嫌いで決めてしまえば、意思決定の組織的な正当性が確保しにくい。客観的な「良し悪し」が前面に出てくるという成り行きになる。(中略)それだけでは他社との差別化を可能にするような面白みのある戦略にはならない。(中略)「こっちのほうが面白そう」「そういうことは嫌いだからやりたくない」という理由で物事が判断されてもいいはずだ。
確かにこれは実感値があり、実際にそういう意思決定の場面も日常の事業運営で行われますが、これをどうやって組織的な力にするかが課題かもしれません。

また、「商売は自由意志」という点ですが、ビジネスの根本原則は「自由意志」であり、誰からも頼まれていないし、誰からも強制されていない。しかし、よく経営者から聞かれるのは「~せざるを得ない」という言葉だとか。これを言った瞬間に、「商売は自由意志」という原則に照らすと、経営の自己否定となります。商売は「せざるを得ない」ではなく「何をしたいか」、戦略は「こうなるだろう」ではなく「こうしよう」という意志の表明だと著者は言います。

これも非常に耳が痛い話。事業の成長を考えるとグローバル化せざるを得ない、ビジネスモデルを転換せざるを得ない、果てには新規事業を考えざるを得ない、といったことさえ社内で話されることがあるのではないでしょうか。

コンサルティング会社マッキンゼーの中興の祖であるマービン・バウワーも、名著『マッキンゼー 経営の本質』で次のように言っています。
「経営の意思」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。システムとして経営に取り組み手法は既に盛んだが、多くの企業で効果的に実行されているとは言い難い。「経営の意思」が発揮されてこそ、経営システムは価値あるものになる。
これ、1966年の著です。昔からこの点は普遍的な問題のよう。

上述のような点に、分析的なモノの見方だけでは捉えきれない経営の肝のようなものを感じます。もちろん客観的にファクトで物事を捉えることはベースとして重要であることは言わずもがなですが、「良し悪し」や「せざるを得ない」で物事を分析的にデジタルに判断をすることは、ある意味で(一定のスキルの人材を揃えれば)誰でもできて楽な作業かもしれません。一歩先を行く突き抜けた経営や事業運営をするには、すごく直観的(センス?)ではありますが、どうやって綜合的なモノの見方を組織として経営に取り込むことができるかが、ポイントになるのではないか。すごくチャレンジングだし面白いテーマだと思います。