2011年9月14日水曜日

発想とか創造とか -宮崎駿の感覚-

最近、寝る前にちょこちょこと読み進めている本があります。宮崎駿の『出発点 1979~1996』
書き下ろしではなく、1979年から1996年の間に雑誌等に掲載されたエッセーや対談が集められた600ページ弱の分厚い本。

以前のエントリーで、『木を植えた男』で有名なフレデリック・バックの展覧会に行った話を書きましたが、その物販コーナーでこのフレデリック・バックのファンというか高い評価をしている宮崎駿の著書等も置かれていて、文章も結構も書くんだということを知ったのがきっかけ。

ジブリの作品は人並みにほぼ全作品見ていて馴染みもあるし、それ以上に、独自の世界観を打ち出しながら、老若男女問わず多くの人の支持を集めるという、一見背反しがちなことを同時に成し遂げているクリエイターの思考や発想を知りたいなと思ったわけです。

ちなみに、これも以前取り上げたものですが、宮崎駿って面白い考え方するなー、と思ったコメントがこれ。
「あんまり自分がやりたいと思っていることを分析しようと思ったことはないんです。分析した途端にくだらなくなってくるから。」

そんなことで、前半を読んできて気になったコメントをピックアップしておきたいと思います。子供の教育とかにも言及していますが、これ大人に当てはめても言えることだと思っています。

※【】書きは筆者の独断と偏見でラベル付けしたものです。ご注意ください。

【失敗を恐れない】
人間が日々経験していくことを総合して自分の中で膨らましていく能力というのは、もっと幼いときに、やるべきことをやりながら見につけるものなんですね。
木にぶら下がったとたん、「あっ、これ折れそうだからヤバイ」と思うことは、どこで覚えたんだろうって記憶にないですよね。「ここを踏んだら沈むぞ」とか、「ここはぬかってるから踏まないほうがいいな」というのは、いつの間にか覚えることですよね。それは幼児期に、たくさんの実際の現実と触れながら、失敗しながら覚えたことなんです。

【具体的に観察する】
幼稚園で字を教えるなんてもってのほかですね。(中略)字を覚えない、抽象的にものを考えない時代のほうが、ものをじかに見ますから、ものの持ってる性質や不思議さやら、いろんなことを発見するはずなんです。
子供は向こうから来る自動車には気がつかないけども、道の向こうに落っこってる輪ゴムには気がつくんですよ。

【内発的な動機を起点にする】
アニメーターになろうとする君は、すでに語るべき物語や、ある情念や、形にしたい架空の世界を、素材としていくつも持っているはずだ。ときには、人の語った夢の借りモノであることもあるし、現実逃避や恥ずかしいナルシシズムの世界であったりする。(中略)それが曖昧であったら、漠とした憧れであってもかまわない。表現したいものを持っていること、それがすべての始まりなのだ。
いま、一つの企画が決まり、君は何かに触発された。ある種の気分、かすかな情景の断片、なんであれ、それは君が心ひかれるもの、君が描きたいものでなければならない。他人が面白がりそうなものではなく、自分自身がみたいものではなくてはならない。

【量を質に転化する】
たくさん描くこと、できるだけたくさん。しだいにひとつの世界がつくられていく。一つの世界をつくるということは、他の矛盾したり反撥したりする世界を捨てることを意味する。とても大事なものなら、それは、いつか再びつかう日のためにソッと心の中に収えばいい

【前例に逃げない】
いちどヒットしたものの踏襲をあえてしないということかな。たいてい同じ路線でいこうとするでしょ。その安全パイに逃げる方法をあえてとらない。それが結果的にはたまたまいいほうに働いたようですね。それでつまづいてだめになる可能性は十分あったわけだけど。

【今やれそうなものは選ばない】
今、僕たちのスタジオでは、企画検討会っていうのをやってまして、とにかくホンを決めて、それをみんなで読んでいく。(中略)それを映画にした時に、それが当たるか当たらないかは、ともかくとして、面白くなるかならないか、作るに値するか、ひょっとしたらお金になるかもしれないっていう、その三点に照らし合わせてどうかっていうことでね、自分で検討してきて意見を言うわけです。
(中略)これ、今やっても、お客絶対入んないっていう自信のあるホンが出来たんですけど、でも、これは僕らの財産ですから、今は駄目でも半年後にはものすごくリアリティーを持つ企画になるかもしれない。
今やれそうな企画は、選ばないんです。非常識なものを決めようとしているんですよ。

【ギリギリまで考える】
映画っていうのは、僕よく言うんですが、頭のなかにあるんじゃなくて、ここら辺(頭の上を指さす)にあるんだって言うんです。自分が、こういう映画を作ろうと決めて歩き始めたら、現代の日本で、この歳でね、自分に与えられた物理的条件、スタッフとか才能とか。自分の内的条件、エネルギー全部含めて、最良の方法はひとつしかない。なんかあるはずなんです。それを見つける事なんですよ。
安直に、あそこの映画でこういう風にやってたから、ヒョイって持ってきても、それを安直に持ってきただけですから、くっつかないですよ。最良の方法じゃない。それが駄目だなと思うと、探すしかないんです。自分の頭の中探しても見つからないんです。
それで、僕が映画作る時に、絵コンテに時間がかかるっていうのは、それなんですけども、そのときに逃げちゃ駄目なんです。困るしかないんです。それで、うんと困ってると、もう少し奥の脳が考えてくれるんです・・・と思うしかないんですよ。自分の記憶にない過去の体験とか、いろんな物が総合されて、これなら納得できるっていう、それが自分の能力の限界だと思うんですけど、そういうのがポッと出てくるもんだと思うんです。
だから、要はそこまで自分を追いつめられるかどうかなんです。それが一番大事なこと。

【目的を持って本を読まない】
映画にしろ漫画にしろ、何かをつくるために本を読むということは、ほとんどないですね。それまでに気が向くままに読み散らしたものの断片が、何かをつくろうとジタバタしているうちに、うまくいく場合は一本の糸だか縄だかに撚りあう。そういう感じです。


首尾一貫されているのは、「アリモノに逃げず、失敗を重ねた結果、自分の中に積み重なったものから創発する」という姿勢ですね。

本書の後半には、司馬遼太郎、糸井重里、村上龍といったところとの対談や、過去の作品の企画書や演出覚書が収録されているようです。これまた面白そうです。

2011年9月12日月曜日

戦略の自由度 -米国製薬業界におけるフリーミアム戦略を例に-

定期購読誌の一つであるハーバードビジネスレビュー。9月号のテーマは『マーケティングを問い直す時』でした。その中に、『「FREE経済」の戦略』という論文があり、まあフリーミアム自体はさして新しくもないのですが、これを製薬業界、その中でも医療用医薬品の世界で実践しているというケースが収録されていたので、ご紹介。

ちなみに、ケースに出てくるガルデルマというのは、世界最大の食品会社ネスレと世界最大の化粧品会社ロレアルのジョイントベンチャーで、皮膚疾患に特化したスペシャリティ・ファーマ(特定分野における新薬開発メーカー)。この会社の出自自体もちょっとユニークで面白いのですが。
最近は、日本でも「ニキビは皮フ科へ」という、お笑いの柳原加奈子を起用した疾患啓発CMをしているみたいですね。

さて、以下が論文からのケースの抜粋。

2008年、ネスレとロレアルのジョイント・ベンチャーのスペシャリティ・ファーマ(特定分野における新薬開発メーカー)、ガルデルマは、アメリカで処方用にきびローションの<エピデュオ>を発売した。
自社の他のにきび治療薬<ベンザック>のアメリカでの特許が切れかかっていたため、ガルデルマはできるだけ早くアメリカで<エピデュオ>の市場シェアを確立する必要に迫られていた。しかしヨーロッパでは、この製品はグラクソ・スミスクラインのにきび治療用ジェル<デュアック>との激しい競争に直面していた。
アメリカでも同じ状況になると考えたガルデルマは、1年もの間、患者が<エピデュオ>を購入した際の自己負担分を払い戻すプログラムを実行することにした。顧客は、払い戻しクーポンと引き換えに、自分のeメール・アドレスを同社に教える。すると、スキン・ケアのヒントや、にきび関連情報、洗顔せっけんなどの一般製品の安売り情報が送られてくる。
市場シェア獲得のために新製品発売当初に思い切った払い戻しをするのは、製薬業界ではよくある戦略である。それなりのシェアを獲得すれば、その医薬品が健康保険の対象となるため、開発費を相殺し、特許が切れる前に利益を出すことができるからである。
しかし、既存の医薬品を販売している企業は、価格面でリスクを取るのを嫌うのが一般的である。原価計算システムと損益構造のせいで、多額の製品コストを回収すなければならないと考えてしまうのである。
このため、ガルデルマが<エピデュオ>の払い戻しプログラムをスタートさせた時、グラクソをはじめとする既存企業は何もできなかった。グラクソのある幹部は、私たちにこう語った。
「彼らには対抗できません。割引する余裕などほどんどないのです。だから、うちはシェアを失っています」
実際には、ローションやジェル一つの限界費用、すなわち材料費や人件費はごくわずか(数セントから数ドル)である。したがって、既存企業であるグラクソは、大幅な割引をしても、あういは、ガルデルマと同様に払い戻しをしても、短期的に失うものはないに等しかったはずである。
またグラクソは、ガルデルマと同じようにクロスセルを行うこともできただろうし、プロフィット・センターの壁を壊すことで、成功を収めている他製品の利益を使って皮膚科分野の短期的な損失を補うこともできただろう。
そうすれば、ガルデルマはシェアを伸ばすことができず、無料製品の提供を断念せざるをえなかったに違いない。この戦いはまだ続いているが、いまのところ、ガルデルマはその戦略によって顧客を獲得し、クロスセルで利益を上げている。


これは米国のケースですが、製薬業界、それも医療用医薬品でフリーミアムが実践されていることをはじめて知りました。このやり方には賛否両論ありそうですが、良し悪しは別にして、製薬業界にして自由度の高い戦略という意味で、非常に面白い取り組みです。

ご存知のように、日本では薬価制度や保険制度、あるいは患者への直接的なプロモーション方法の規制等により、このような取り組みを製薬企業は出来ないのが現状です。このケースの中だけに限っても、日本では、自由度高く価格を設定することもできませんし、皆保険なので民間保険が中心の米国のように医療経済性も考慮されませんし、患者に直接製品のプロモーションもできません。

このように、規制は戦略の自由度を大きく下げます。もちろん規制によって守られている部分も多いわけですが、一方で規制の議論ではそういったネガティブチェックばかりに目が行き、戦略の自由度によって得られる効用についてあまり議論がなされないように感じます。「じゃあ、いいんですね、こんな最悪なことが起こっても」というように、(生命関連であるがゆえになのか)思考停止になってしまうワードが投げかけられるわけです。

他にも、ヘルスケア業界には色々と規制が付きまといます。何をゴールにするかによってその判断は大きく変わるかとは思いますが、規制として必要なものとそうでないもの(効用と対比した時に外したほうがいいもの)を改めてゼロベースで峻別すべきなのではないかと思います。そうして、戦略の自由度を意識的に高められる人が本当のマーケターでありイノベーターなのでしょうね。

ちなみに、米国製薬業界におけるDTC広告(Direct to Consumers Advertisement)はこんなにも自由度高いんですよ。
米国における医療用医薬品の消費者向けダイレクト広告(DTC広告)

2011年9月10日土曜日

数字には意図がある -「基準値」によって変わる「患者数」-

以前のエントリーで、糖尿病を例に、慢性疾患における病気にかかっているが未治療である潜在患者のボリュームの大きさを確認し、現在マーケティングの対象の中心となっている病気に自覚的で治療をしている層以外にも目を向けることの重要性を考えてみました。その中で、自身の糖尿病に対して「未発見・無自覚で未治療」あるいは「自覚あるが未治療」であると考えられる想定患者数を引用しました。

課題解決の視野を広げる -糖尿病の予防、早期発見、治療を例に-

続:課題解決の視野を広げる -慢性疾患における「未治療」の要因-


これに対する広義の意味での対論というのでしょうか、月刊誌『選択』9月号を読んでいて、興味深い記事がありました。医学博士柴田博氏の「糖尿病患者「急増」の大嘘」から引用します。

七月の某週刊誌に「糖尿病『一千万人の真実』」と題するキャンペーン記事が掲載されたのを、ご記憶の読者もおられよう。
(中略)
この連載の初回で書いたとおり、日本人の総カロリー摂取量は、終戦直後の1946年より、今の方が低くなっている。現代の方が、低栄養なのだ。なのに、なぜ糖尿病患者が急増し、三倍になったりするのか。
手口は簡単である。メタボリック・シンドロームと同様で、診断の基準値を下げたからだ。数値をいじって、患者を意図的に増やしただけのことである。
(中略)
糖尿病診断では、かつて空腹時血糖が140以上を異常としていた。それが1999年になって、126に突如下げた。当然「患者」は増えた。
※ちなみに、「この連載の初回」にあたる、1月号の記事「「健康常識」を疑おう」には、1946年の1日の平均摂取カロリーが1903キロカロリーであったのに対して、2008年は1867キロカロリー、とあります。

記事には下記のようなデータも記載されています。(基準値が変わっただけで)過去から血糖値自体に大きな変化はないというデータのようです。



記事からは、製薬企業や学会といったいわゆる「業界」に対する筆者のアンチな姿勢が漂っているので、額面どおりに受け取ることはしないほうがいいように思いますが、一つの事実としてこのような見方があり、基準が変わったということは良い悪いは別にして事実なのでしょう。

数字はファクトと言われ、数字そのものは客観的なものではありますが、上記のように、その意味合いを考える際にはそこに「意図」が含まれるようになります。例えば、100という数字を高いと見るか低いと見るかは、何を基準に見るかによって変わりますし、過去のからのトレンドの変化によっても異なってきます。また見る立場によっても数字の意味合いは異なります。

今回引用した記事は、以前のエントリーで紹介した数字が「ある種の意図を持っている」と言っているというふうに解釈できます。私は、未治療層のボリュームは大きく、予防であるとか診断であるとかが重要であり、そこに未解決の課題があるということには同感ではあるのですが、「数字の意図」についてはしっかりと見極める必要があることは確かにその通りだと思いました。


■付記
それにしても、こういった数字を体系だってまとめたデータはあまり落ちていませんし、あったとしても怪しげに加工されているものも多いですね。。結局、厚労省しかないのですが、厚労省の統計データから目的のデータを見つける難易度は、天下一品であると改めて思いました。(意図的ではないことを切に願います)

2011年9月5日月曜日

続:課題解決の視野を広げる -慢性疾患における「未治療」の要因-

以前のエントリーで、糖尿病を例に、慢性疾患における病気にかかっているが未治療である潜在患者のボリュームの大きさを確認し、現在マーケティングの対象の中心となっている、病気に自覚的で治療をしている層、以外にも目を向けることの重要性を考えてみました。

課題解決の視野を広げる -糖尿病の予防、早期発見、治療を例に-

その中で、糖尿病の早期診断の鍵を握る「指先HbA1c検査」の普及~「糖尿病診断アクセス革命」、という記事を取り上げたのですが、そこから私がした整理(一部)が下記。

患者群を一般的に整理すると、大きく①非罹患(病気にかかっていない)と②罹患(病気にかかっている・いた)の2つ。
さらに、②は、②-1:未発見・無自覚で未治療、②-2:自覚あるが未治療(もしくはドロップアウト)、②-3:治療中、②-4:治療済み、という4つに大別されるように思います。
(中略)
今回の糖尿病のケースに当てはめると、①と②-4は記事からは不明、②-1は約325万人(罹患中約38%)、②-2は約325万人(罹患中約38%)、②-3は約237万人(罹患中約25%)、ということになります

前回のエントリーでは、この中でも「②-1:未発見・無自覚で未治療」について、上述の参照記事をベースに、検査や早期発見を促すシステム・支援の重要性について考えました。

一方で、「未治療」にはもう一つのセグメントがあり、それが「②-2:自覚あるが未治療」になります。数字だけ見ると②-1と同じくらいのボリュームがあります。変な言い方ですが、検診を受けていないために未発見・無自覚で未治療というのは、まだ理解ができますが、なぜ自覚はあるのに未治療という人がここまで多いのかということは一つ気になるポイントです。

参考までに、厚生労働省の調査から日本の健康診断受診率を調べてみたところ、平成16年度の数値ではありますが、概ね「受けた」が60%、「受けなかった」が35%といった割合です。(被雇用者は受診率高く、自営業者等は受診率低い、というバラつきはあります)恐らくこれらの健康診断には血液検査は入っていると思われるので、国民の60%は血液検査は受けているわけです。血液検査単体で受ける人はかなり意識の高い人だと考えると、上記の「②-2:自覚あるが未治療」は、おおよそこの60%から生まれていると考えられます。

医学情報誌『ランセット』に納められている論文「わが国における医療費抑制と医療の質:トレードオフはあるのか」には、日本で未診察・未治療が多い要因の一つとして下記を挙げています。

日本に総合診療の標準的ガイドラインと研修制度がないことと,予防サービスと治療サービスが分かれていること

背景理解や知識が不十分なため、正確な理解ではないかもしれませんが、要は、「かかりつけ医に定期的に診てもらって病気を見つけてもらう仕組みが不十分である」「見つけるプロセスと治すプロセスが分断されているため、見つけても治せない(ことが多い)」ということでしょうか。

前者については、「②-1:未発見・無自覚で未治療」に関係しそうで、特に健康診断を定期的に受けていない35%の層に大きく響きそうな内容です。
一方、後者についてが、まさに今回取り上げようとしている「②-2:自覚あるが未治療」に当たるのではないでしょうか。

確かに、自分について翻って考えてみると、健康診断で何かの異常値が示されてもそれがどれ程深刻かはあまり意識しない(意図的に調べたり動いたりしない)ですし、よっぽど異常値が出たとしてもネクストアクションがパッと出てくるような知識やリソースが自分にはありません。かといって、健康診断を受診した機関が、何か積極的に医療機関や治療方法を紹介してくれるようなことも、経験上ありません。

毎年だまっていても健康診断を受けられる人は、定期的な検診を受けられない人に比べて、かえって受け身なのかもしれません。この場合、個々人の「意識を高める」ということと、意識が低いことを前提に「見つけるプロセスと治すプロセスをシームレスにつなげる」ということと、どちらが効果が高いのでしょうか。
前回のエントリーもそうでしたが、今回も特別答えがあるわけではありません。自身への一つの問題提起として書きとめておきたいと思います。

前回のエントリーアップ後に、引用した記事の筆者の矢作先生から、こういった未治療なセグメントがボリュームとして大きいということは、「マーケティングという視点からは「潜在市場」という見方もできますよね。」というコメントをTwitterでいただきました。
(まさかご本人から直接コメントをいただけるとは思いませんでした。ありがとうございました。)

私もその通りだと思います。課題解決の意味合いも大きく、継続性の観点からも「市場」になりうる、こういった課題に向き合うということはマーケティングをやるものとして非常に意味のあることのように思います。引き続き考えていきたいと思います。

2011年9月4日日曜日

観察することで見えてくるもの -『江夏の21球』を読んで-

『スローカーブを、もう一球』(山際淳司)に収録されている、『江夏の21球』を読みました。1980年の作品で、ここで紹介するまでもないくらい有名なノンフィクションエッセーです。文庫版でたった24Pのボリュームですが、江夏の日本シリーズ最終戦の登板に的を絞り、多方面への取材を通じて投球シーンのディテールを描写することで、江夏という人物に迫る作品です。

この作品を読もうと思ったのは、たまたま最近読んだ2つの書籍で引用されていたからです。全く毛色の異なる2つの書籍で引用されていることに面白さを感じて読んでみましたが、当たりでした。

『次世代マーケティングリサーチ』(荻原雅之)
『調べる技術・書く技術』(野村進)

こういった、ビジネス書以外の作品に対する書評をする術を持ち合わせていないので、上記2つの書籍のうち、『次世代マーケティングリサーチ』での引用をご紹介することで、雰囲気をお伝えするに留めさせていただきます。『次世代マーケティングリサーチ』では、消費者理解には、数字の把握だけではなく、利用シーンのディテールや心理作用を捉えることが重要だと言う趣旨に絡めて、『江夏の21球』を引用しています。

スポーツノンフィクションの傑作として有名な山際淳司氏の「江夏の21球」は、ビデオの映像を当事者に何度も見せて、その時に何を考えていたか、なぜそのような行動をとったかを思い出させて生まれたものだ。映像からデータに移しただけでは価値を持たない。映像や動画のデータ化で重要なのはその解釈だ。データだけではなく映像そのものが持つ想起力を活用するのはエスノグラフィ的な手法ともいえる。 
興味深いことに、「江夏の21球」を掲載した『Number』編集長(当時)の岡崎満義氏は、1986年に「江夏の経歴を洗って人物クローズアップ的な手法をとるよりも、広島-近鉄の日本シリーズの最終戦で彼が投げた21球を徹底的に”解剖”する方がより江夏の本質に迫れるのではないか」と記している。 
ここにも対象の「理解」に関する示唆が含まれている。消費者の理解もトータルな数字よりもある場面のディテールによって本質が理解できるというのは消費者理解にもあてはまりそうだ。

ちなみにエスノグラフィという手法は、エスノ(ethno-)は「民族」を、グラフィー(-graphy)は「記述」を意味するように、元来は文化人類学や社会学において集団や社会の行動様式を調査することを指します。マーケティングにおいては、アンケート等から統計的に定量分析をする手法と対を成し、消費者の自宅にお邪魔して行動を終日記録するなど、観察やインタビューから定性的に消費者を理解しようという手法です。P&Gなんかが有名ですね。

エスノグラフィーとは

本書でも、江夏の球種は統計的にどうで、ピッチングの組み立てが統計的にどうで、というところからではなく、21球の投球シーンにおける行動や心理描写を通じて、江夏に迫ります。

なんか、面白そうじゃないですか?
Amazonマーケットプレースでは、1円から売られているような感じなので、一度手に取られてもいいかもと思い、ご紹介でした。

なお、ネタばれにご注意ですが、参考資料を記載しておきます。本を読んだ方が当然味わい深いですが、これらで大体中身わかります。

江夏の21球 (Wikipedia)

名作ノンフィクション 「江夏の21球」はこうして生まれた (当時の『Number』編集長の解説)

松岡正剛の千夜千冊『スローカーブを、もう一球』山際淳司 (書評)


あと、引用をさせてもらった『次世代マーケティングリサーチ』はマーケティングを仕事にしている人にとって、非常に示唆に富んだ書籍になっていますので、まだの方は是非一度手に取られることをお勧めいたします。今回引用してみて、また読み直してみたいと思いました。

2011年9月2日金曜日

課題解決の視野を広げる -糖尿病の予防、早期発見、治療を例に-

いつもと少し毛色が異なるのですが、興味分野の医療に関して。

医療の世界におけるマーケティングという文脈で考えると、企業のマーケティング予算が投下されるのは、薬剤等の化学療法による治療や外科手術による治療に代表される「病気にかかっていると気付いている人で病院に行っている人」に対するソリューションや製品に関するものが多いのが現状かと思います。
一方で、全体観を持って医療全般に目を向けてみた時に、一番病気に苦しむ人を減らすことができるのはどのような部分なのか、同時にトータルで(国費も含めた)コストを一番抑えられるのはどのような方法なのか、ということは非常に気になる部分です。

そんな中で、実は「病気にかかっていると気付いている人で病院に行っている人」だけではなくて、もっと視野を広げて考えないと、という記事がありましたので、共有します。

糖尿病の早期診断の鍵を握る「指先HbA1c検査」の普及~「糖尿病診断アクセス革命」

まずは、数字について抜粋します。

  • 2007年の厚生労働省国民健康・栄養調査で日本の糖尿病人口は890万人と推定
  • 2008年の厚生労働省患者調査によると、医療機関を定期受診している糖尿病患者数は 237万人
  • 650万人もの糖尿病者が未治療、糖尿病有病者の実に3/4にも相当
  • その内のおよそ半数は血液検査を受けたことがなく、糖尿病を発症していることを全く自覚していない未発見糖尿病であると言われる

患者群を一般的に整理すると、大きく①非罹患(病気にかかっていない)と②罹患(病気にかかっている・いた)の2つ。
さらに、②は、②-1:未発見・無自覚で未治療、②-2:自覚あるが未治療(もしくはドロップアウト)、②-3:治療中、②-4:治療済み、という4つに大別されるように思います。
この5つのボックスの中で、果たしてどれがボリュームとして大きいのか、あるいは解決することのインパクトが大きいのでしょうか。

今回の糖尿病のケースに当てはめると、①と②-4は記事からは不明、②-1は約325万人(罹患中約38%)、②-2は約325万人(罹患中約38%)、②-3は約237万人(罹患中約25%)、ということになります。
人数だけで議論をするのは大変乱暴ではありますが、これだけ見ても、検査や早期発見を促すシステム・支援の重要性や、ドロップアウトを防ぐシステム・支援の重要性が垣間見えるのではないかと思います。(当然、治療技術の向上は重要だと思います)
また、この記事からでは①の数はわかりませんでしたが、同様に予防の重要性も言えるのではないかと思います。(また機会があれば調べたいと思います)

では何が、予防の意識が高くない、早期に発見されない、ドロップアウトしてしまう、といったハードルになっているのでしょうか。今回の記事は、上記の中でも特に②-1:未発見・無自覚で未治療、について取り上げられています。以下抜粋します。

なぜ糖尿病は放置されやすいのか?それは、糖尿病の大多数を占める2型糖尿病は、初期にはほとんど自覚症状のないままに病状が進行していくことが特徴であり、検査を受けねば見つからないことが多いからである。
(中略)
「何の症状もないのになぜ血液検査を?」という意識の人々もいまだに多いのが現状。

この記事では、下記のような方法を通じて、検査を定着させることを提唱しています。

近年、複数のメーカーから開発・発売されている「微量血液検査装置」では、わずか1μlという、ごく微量の血液(蚊の吸う血液の1/5程度)からHbA1cを迅速(約6分)かつ正確に測ることができるようになった。このレベルの微量の血液で済むということは、すなわち、「指先穿刺でよい!」ということであり、このことは「自己採血が可能!」ということを意味している。指先自己穿刺採血は、これまで主にインスリン治療患者の自己血糖測定として、広く普及してきた方法であるが、これを今後はHbA1c検査にも応用していくことが可能となったわけである。これは、「採血=注射=痛い」というイメージなどにより、(静脈採血による)血液検査を敬遠する人たちにとって、大いなる福音である。

こんなに簡単に・楽にできるのか、という感想を持ちました。広く普及して欲しい良い方法だと思います。ただ、この方法は「採血イヤ」「面倒くさい」という課題の一つに対するものであり、そもそも無自覚のまま症状が進行するということを知らない、検査はお金がかかると思っている、等々、他にも検査を妨げている要因はいくつもあるはずです。

また、この記事では取り上げられていない、②-2:自覚あるが未治療(もしくはドロップアウト)についても、既に自覚がある分だけ治療に戻ってもらうことのハードルは低いのかもしれません。さらに、①非罹患(病気にかかっていない)についても、ボリュームは相当に大きいはずですから、ここの予防を徹底するだけでも相当なインパクトになるかもしれません。

国際的な医学情報誌『ランセット』日本特集号「日本:国民皆保険達成から50年」では、高血圧や高脂血症でも同様に未診断・未治療率が非常に高いということが書かれていました。未診断・未治療率が、高血圧で40%強、高脂血症で80%弱と、米国に比較して、がん治療等の高度医療の普及やアウトカムの基準の高さに対して、一般的な疾患の診断・治療率が非常に低い、ということだそうです。

日本と米国における高血圧症および高コレステロール血症の診療率と管理の状況(PDF)


これらは、「現行の」マーケティングの重要性を否定するものではありませんが、今目に見えている部分だけではなく、より広い視野を持たなければ、本当の意味での課題解決にはならないということを意味しているように思います。

課題解決の視野を広げるということは、目的の設定を変えるということに、言い換えられるのだと思います。今回の例でいくと、「治療している人をいかに完治に持っていくことができるか」から「潜在的な人たちも含めいかに治療に導き、継続してもらうか」という目的設定の転換です。これが答えかどうかは正直わかりませんが。

私自身の興味のある分野として、医療において設定すべき目的・課題解決については、引き続き調べたり考えたりしてみたいと思っています。(範囲が広すぎますし、問題が高度すぎるので、結構難しいのですが)

2011年8月31日水曜日

スタートラインに辿り着く -ペン・シャープナーを持つ-

来週に控えている会議に向けて企画書を書き始めるとき、明日までに何かアイデアを出さなくてはいけないとき、勉強するテキストに向かうとき、何か気持ちが乗らず最初の一歩がなかなか踏み出せないときがあります。マインドセットができていないのか、集中できない場所で作業を始めようとしているからなのか、体調が悪いのか、何かしら一歩を踏み出すための準備が不足しているのでしょう。自分のことを振り返ってみると、やる・やろうと思っていたのにまだスタートを切れていないことも多くて、これまで、やろうとしたことやアイデアを出せば前に進められたことを、どれだけ棒に振ってきているでしょう。

確かに、作業の途中で、行き詰ることも、息切れすることもあるのですが、始めれば大抵走り切ることができるものです。当然、その良し悪しはあるのですが、物理と同じで、良し悪し(質の高低)は、出だしの初速や、スタート地点の高さで決まってきたりします。要は、スタートを切れるか、そしてそのスタートの質を高められるかが、その後の成否を左右する部分は大きいと思うのです。

と、そんなことを考えていたら、「最後までやり遂げる」というメルマガ記事が回ってきました(逆説的なタイトルですが)。その中に下記のような面白い記述がありましたので、ご紹介します。

サハラマラソンは、サハラ砂漠を7日間かけて合計250km走るという「地球上で最も過酷なレース」と言われている競技です。
(中略)競技者は、7日分の食料や飲み物、寝袋、炊事道具、衣服など合計約20kgの荷物を背負いながら、昼間は50度近くの気温になるサハラ砂漠を走り続けるのです。

1986年に第1回が開催され、第26回目の2011年は42ヶ国から868名の参加があったそうです。
競技中に命を落とす人も出るほどの過酷さで、毎年、全競技者の1割以上が途中でリタイヤしてしまいます。
しかし、驚くべきことに、スタート前にキャンセルする人の数は、レース中にリタイヤする人の数の10倍もいるそうです。

大雑把に計算すると、
申し込んだ人のうち、実際にスタートする人は約5割。
スタートした人のうち、完走する人は約9割。

この数字だけを見ると、「スタートからゴールにたどり着く」ことよりも、「まずスタートラインまでたどり着く」ことのほうがはるかに難しいことが分かります。
この超過酷な鉄人レースを日常生活と重ねるのはどうかというところはありますが、このスタートラインに辿り着けなかった人たちの理由に興味が湧いてきます。これだけのレースにエントリーするのですから、ある程度の能力や知識、経験は持ち合わせている人たちのはず。そう考えると、物理的に準備に時間を割けなかったからコンディションが整わなかったということもあるかもしれませんが、自信を持って万全であると臨めるほど準備をできていないかもしれない、といったようなマインドセットの部分でスタートラインに辿り着けなかったケースが多いのではないかと推測します。(基本的な力が高水準な人たちが)万全という基準がない中で準備を万全にするということは、結局マインドの面が大きいようにも思うのです。

よく聞く話ですが、同じように、作家の世界でもなかなか筆が進まない、というより筆を持つ気になれない、ということはよくあるようです。そんな時、自分に筆を持たせ原稿用紙に向かわせるものを「ペン・シャープナー」と言うのだそうです。以下は、『調べる技術・書く技術』(野村進)からの抜粋。
もうひとつ集中の儀式に役立つ材料に、「ペン・シャープナー」というものがある。英語で記すと、pen-sharpener、つまりペン先を鋭くさせるものという意味である。
いったい何のことかと思われるだろうが、ペン・シャープナーとは、文章のカンを鈍らせないために読む本や、原稿を書く前に読むお気に入りの文章だ。
(中略)執筆の前には、この(ペン・シャープナー)手帳を好きなところから広げて読みはじめる。すると、気持ちが徐々に書こうという方向に高まっていく。その瞬間を逃さずに書き始めるのがコツだ。

また、作家の宇野千代は、このように言っているといいます。(『私の文章修行』より)
毎日書くのだ。(中略)書けるときに書き、書けないときに休むというのではない。書けない、と思うときにも、机の前に座るのだ。すると、ついさっきまで、今日は一字も書けない、と思った筈なのに、ほんの少し、行く手が見えるような気がするから不思議である。書くことが大切なのではない。机の前に座ることが大切なのである。机の前に座って、ペンを握り、さあ書く、と言う姿勢をとることが大切なのである。自分をだますことだ。自分は書ける、と思うことだ。

正直ここまでストイックにはなれないのですが(笑)、そして個人的にはそこまで精神論は好きではないのですが、スタートラインに辿り着くための自分なりの術(ペン・シャープナー)は持っておいたほうがいいのだろうな、と思います。確かに、何かふとスイッチが入る瞬間というものは、それぞれにあるはずです。

また、これは日常の仕事ややるべきことだけに留まらず、もっと大きな自分の中で温めていることのスタートをいつ切るのか、というところにも繋がってくるのかもしれません。100%万全な準備、というものはない。スタートラインに辿り着かずに終わる、ということだけはないようにしたいものです。