2013年6月20日木曜日

カンの限界を超える創造の方法論 -KJ法の生みの親:川喜田二郎『発想法』を読んで-

川喜田二郎というと、誰それ?という人も多いと思いますが、KJ法というと、あーなんか聞いたことある、整理学の手法か何かだっけ、という人が多いのではないでしょうか。

何を隠そう私自身がそんな感じで、ろくに原著やその背景にある考え方に当たることなどせず、インタビューやブレストで出てきたトピックをポストイットか何かに書き出して、それを意味合いの近いもので括っていくことで、断片的な情報が体系的に整理でき、それを組み合わせたり並べ替えたりすることで、「課題は大きく言うとこの3つです」的な整理ができたり、課題の連鎖的なものをストーリー化できたり、みたいなことが、KJ法に対するザックリとした理解でした。

このKJ法について記された書籍がありまして、それが『発想法』『続・発想法』です。ちなみに『発想法』は1967年発刊です。こんなに息の長い方法論だとは勉強不足だったのですが、今にも通用する内容が多く、普遍的なものだからなのか、それともこの分野に目立った発展がないのか、よくわかりません。少し話はそれますが、ブレインストーミング(ブレスト)についても書かれていて(発案は別の人)、これもなんと1950年頃に考案された手法だそうで、「人の意見を否定しない」「ばかげたことでも自由に意見を出す」「量を重視する」「他人のアイデアに便乗し発展させる」といったルールも当時からあったそうで、これもまんまだなと驚きました。

この書籍を知ったのは、とあるブログで、最近「デザイン思考」とか「人間中心のデザイン」とか言うけど、その方法論の背景にある考え方って川喜田二郎がKJ法でまとめた考え方とすごく近い、というような記述を見て、そんな考え方が背景にある方法論だったのかと興味を持ったのが改めてちゃんと読んでみようと思ったきっかけです。

方法論の詳細については、他にも色々と記事や文献があるようなので詳細はそちらにゆだねますが、有名ないわゆるKJ法の解説以外にも、下記の「W型問題解決モデル」というような科学やその他の各種問題解決に活用可能な手法もまとめられています。これなんかはまさに製品・サービスの対象となる人間の観察を起点にした「人間中心のデザイン」にものすごく近い印象。そもそもが川喜田氏自身も文化人類学者です。

川喜田氏は下図のA→D→E→Hの思考レベルに閉じた科学を「書斎化学」、D→E→F→G→Hの推論からスタートする実験観察を通じた科学を「実験科学」、A→B→C→Dの問題提起から予断を持たず現場での探索観察を通じて仮説を作り出す科学を「野外科学」と呼んでおり、実はKJ法というのはこの「野外科学」において探索観察で得られた情報を統合し仮説という発想にまとめ上げる手法なのです。



『発想法』の副題は「創造性開発のために」です。結びに下記のようにあるように、川喜田氏がまとめあげようとしたのは「整理の方法論」ではなく「創造の方法論」なのですね。その点は大いに誤解をされているように思います。(私だけ?)
この発想法は、分析の方法に特色があるのではなく、総合の方法である。はなればなれのものを結合して、新しい意味を創りだしてゆく方法論である。分析的な方法だけではわれわれの世界は不十分である。
さて、少し取りとめがなくなってきましたが、最後になぜ川喜田氏がこのような創造の方法論をまとめようと考えられたのかという背景にある考え方が面白かったので、そのエッセンスを抜き出しておきます。平たく言うと、日本人は創造を生み出す資質はベースとしてあるのに、変に小器用でそれに頼るものだから、その能力を超える難題になると途端に路頭に迷う。そこで元々ある資質をうまく生かしつつ体系的に事に当たれる方法論があるとすごく強いのではないか、というようなことかと思います。これはすごく実感値ありますね。
日本人は「理論信仰」と「実感信仰」の両面をもっているが、(中略)いざというい土壇場のところでは、理論はとらずに実感信仰をとるくせに、表面的にはいかにも理論を信じているように自分も思い込むし、ときにはそのようなジェスチュアもするのである。すなわち、最後は日常体験ないし「生活の知恵」のようなもののほうを信頼しているくせに、頭のテッペンでは、輸入した中国の古典的理論や西欧の理論などを信じている。この双方のあいだに関連がない。 
アメリカ人は、ものごとの一つ一つの概念を、鮮明な輪郭で取りだす傾向がある。(中略)概念をとりまいてはっきり限定を加える輪郭のないのが、日本人の世界らしい。 
アメリカ人は、おのれという個人主義のカラが固く、そのおのれを外へ征服的に押しつけることにのみ急になる欠点がありはしないか。つまり、自分の青写真にあわせて「外界」を料理しようという一面への偏りすぎが・・・。(中略)日本人は足もとの体験からなにかを「総合する」という個人的能力が、ある意味でアメリカ人よりもすぐれていると思う。 
日本人は体験を総合化するという直観力にすぐれているために、かえってその武器に初めから終わりまでぶらさがろうとする。(中略)いくら日本人が直観的総合力、状況判断の洞察力に優れているといっても、それは現実が比較的単純な場合にだけ可能であるにすぎない。現実が複雑になってきた場合には、直観だけで一挙に総合化することは、何びとといえども不可能なのである。それにもかかわらず、日本人は一次的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。
そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである。息の短い直観的総合力と、それに伴う息の短い創造性。それでものごとが処理できないと、たちまちにして模倣に転ずる。 
小さな直観的総合能力、小さなヒントのひらめきを、事実に密着しながら、大きなひらめきに組み立ててゆく方法を日本人はもっていない。それ以上に根気よく積み上げる道に対して、はじめから投げだしてかかっているように思われる。
川喜田氏の功績(上から目線。。)は、カンに頼ってきた暗黙知の世界を体系立てて方法論としたところにあるかと思います。真意が正確に理解され、最大限に活用されているかというとそうではない印象です。

ご参考までに、現代で言うと、私の中ではデザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏のアプローチが、なかなか形式知化しにくい領域で方法論をまとめておられるという意味ですごく近いなあと思っています。過去にまとめた記事を参考までに置いておきます。

イノベーション:7つの落とし穴 -整理ではなく創造のためのイノベーション・フレームワーク-

アイデア創出の処方箋「バイアス崩し」 -Ziba濱口秀司氏プレゼン@TEDxPortland-

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