2013年9月28日土曜日

セレンディピティとは発見の力ではなく解釈の力? -情報のインプットと解釈 について再考-

少し、情報のインプットと解釈について再考したい気分。結構当たり前な話かもしれませんが。

まずは、情報を扱う目的から改めて考えます。今回、目的は、ビジネス、特に新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような場合に絞ります。

新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような際に、必要なこととしてよく言われることは、「問題発見」や「問題解決」ではなく、「問題設定」そのものである、ということです。今ある問題整理のフレームワーク、業界の構造、そういった既存の枠組みを前提にした発見と解決を是とするのではなく、その枠組み自体を見直し、問題そのものを定義・設定するという考え方です。

「問題発見」も「問題設定」も、目の前にある事象や耳にした事象をインプットし、解釈して、思考するというプロセスにおいては、いずれも情報処理であると言えます。では、問題発見で留まるか、問題設定まで遡れるか、何がそれを分けるのかということが次に問題となります。

情報という観点では、既存の枠組みで考えるということは、意図的なものの見方による「意図した情報」と言い換えることができそうです。これが問題発見的アプローチ。一方で、既存の枠組みでは解釈が難しい情報は「意図しない情報」となります。これが問題設定の源泉。一方で、問題発見であろうと問題設定であろうと、その情報が「有用か」「有用でないか」という軸があります。わざわざ図にするほどでもないですが、以下のような感じ。



このマトリックスで考えると、問題設定に求められる情報は、いかに右上のオレンジ枠の「意図しない有用な情報」を扱えるかということだと思われます。わかりやすい言葉で言うと、セレンディピティ(Serendipity)でしょうか。ただ、ここで気にしなくてはいけないことは、人の情報処理における一次的なインプット段階において、情報は一旦ブルーの枠に放り込まれるということだと思います。まあ考えれば当たり前なのですが、左下のグレーの枠は意図している枠組みの中で有用ではないものなので即オミットできますし、右上のオレンジの枠は意図していない訳なので最初は有用性に気付かずいきなりここに入ってくることはない。

そう考えると、オレンジ色の「意図しない有用な情報」を扱うということは非常に高度な技術であることがわかります。なぜなら、意図していない、枠組みの存在しない中に飛び込んできた情報に、縦方向の有用かそうでないかの「解釈」を入れる必要があるからです。しかも、その「解釈」は単純にAだからBといったような線形なものではなく、循環したり、ジャンプしたり、クロスしたり、アナロジーだったり、うまく言えないですが「発想」のようなものが加味されたものになります。

最近まで、私の中ではオレンジの枠を増やすためには、いかに自分の専門外や一見関係なさそうな情報に触れる機会を作るかとか、いかに全く世界の異なる人に会うかとか、その量を増やすために、情報の種類やカバーを意識してきていたように思います。つまり、オレンジの枠にいきなり放り込むことを考えていたのかと。もちろん、そういった機会を作ること自体は重要です。それがないと情報が全く入ってこなくなるので。

一方で、アンテナを張るということそれ以上に、入ってきた情報をいかに丁寧に色々な角度から解釈するかということの方が重要なのではないかと考え始めています。つまり、右下のブルーから右上のオレンジに情報を移す作業に時間をかけるということです。時間は有限で、ゴールはオレンジの枠を増やすことですから、むしろ情報ソースを減らすことで解釈に時間や意識を集中するということも一手なのかもしれないなと思っています。

ここで改めてタイトルのセレンディピティ(Serendipity)という言葉に触れますが、これまで書いてきたような文脈で、意図しなかった意味あるものとの遭遇、という意味合いでよく使われる言葉です。Wikiによると下記の意味合いだそうです。
セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。
まあ、表層的な現象だけ捉えると「見つける」という「発見」の力なのですが、その本質は上述のようにブルーからオレンジに持っていく「解釈」の力なのではないかなと思ったり。

最後に、「解釈」の力が、「意図しない有用な情報」の取り扱いやセレンディピティにおいて重要だというと、陥りそうなジレンマについて。そのジレンマとは、解釈というものは、そもそも自分の中にある既存の枠組みや思考に規定されがちということです。右下に入ってきた情報を解釈しているうちに、左上とか左下とか既存の枠組みの中に無理やり情報を押しこむ解釈するという、本末転倒な結果に陥る可能性があるということは、かなり意識しないといけないポイントなのかと思います。
(これを防ぐには何が必要なのかというところが鍵なのですが、まだ考えがまとまらないため、結論のないまま今回は終わります)

2013年9月23日月曜日

フラットで多様性のある組織 -マンション管理組合に考える新しい時代の組織論-

実は最近マンションの管理組合の手伝いをすることがあって、色々と考えさせられることがあります。いや、まあ一番は、面倒くさい、ということなんですが(笑)、それでも一つの経験かなと思って色々と観察(?)をするようにしています。

いくらか管理組合に関わってみて思ったことは、管理組合というのは、多分世の中で最もマネージすることが難しい組織の一つなのではないかということ。難しくしている要因は、その構成員の多様性と全員平等というフラットな組織構造にあります。

さて、ビジネスにおける一般的な組織論として、大企業的なピラミッド型の組織や古いヒエラルキーはこの変化に富み先の見えない世の中では古い、これからは、多様な人材一人ひとりが何かのプロフェッショナルとしてチームを構成し、フラットな関係で仕事をする時代だ!みたいな論があり、イメージとしてはそれって理想だよねと思っている人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人。響きはいいんですよね、「フラットで多様性のある組織」。ただ、そのような論自体は特に新しくもないわけですが、意外とそのような組織転換をしてうまくいっているケースを周りではあまり聞かないです。(本当のプロ職で構成される業界では、過去から含め例はいくらでもあるのだと思いますが)

そこには「フラットで多様性のある組織」のマネージが難しい要因があるのではないか、そういえば、マンション管理組合ってまさに「フラットで多様性のある組織」ではないかと。ビジネスとはフィールドは異なれど、何かしらの目的を持って運営されている組織としてどうなの実際はということで、管理組合の組織としての特徴に関する観察結果を整理してみます。加えて、今後の組織のあり方について考える際の共通項も(⇒で記載)。

・構成員がとにかく多様
年齢や世帯構成、収入、買った時期、保有の目的(投資、住居、事業用など)など、とにかく構成員の属性や背景がバラバラ。一つのこと決めるにもあまりに多様な見方や意見があります。中古は特に。

⇒多様性をうまく活かす方法にはどのような組織が最適か?

・民主的な(衆愚的な?)意思決定
様々な議決事案に対して、住民は基本的に全員平等に一票ずつ。良く言えば民主的な意思決定ではありますが、一方でフラットで合議的な意思決定の難しさがあります。衆愚というと言い過ぎかもしれませんが、本当に色々な人がいるので、論理ではなく感情や感覚論で意見が飛び交うこともしばしば。また、昔から住んでいるとか地域に顔が効くとか、声の大小も結構ある。
結局議論を尽くしてというよりも、多数決で物事を決めざるを得ない状況も多く、不満や議論で戦ったしこりが残ることもあります。逆に、規約にもよりますが、3/4以上の賛成がないと決められなかったり変えられなかったりする事案もあり、意思決定が不全に陥る可能性もあります。

⇒全員がイコールパートナーの組織における意思決定の最善解はあるのか?

・責任だけで権限のないマネジメント
管理組合で言うと、理事会や委員会(修繕委員会など)がある種のマネジメントチームとなるでしょうか。理事会の専任事項については責任と権限が伴うのですが、組合の総会に諮らなくてはならない事案については、マネジメントチームで方向性は出すものの、総会で否認されればボツ。責任はあるものの権限はないに等しいケースも多々。
そして、そのマネジメントチームとして働くインセンティブはと言うと、有形の報酬はおろか無形の報酬もないのが実態かと。名誉職か輪番でお鉢が回ってきていやいやがほとんど。

⇒全員がイコールパートナーの組織におけるマネジメントとは?責任と権限、報酬の設計は?

・参加者が固定化される会議体
組合の総意で決定すべき事案がある場合など総会が開催されるのですが、ここに参加するメンバは割合固定化されていきます。やたら積極的で意見をばんばん出す人と、全く関心のない人と二極化。一方で、大規模修繕など、大きな金銭が関わる事案にはいつもにない人数が参加する。つまり、人は結局自身が関心あること、自分にとって重要だと思われること、影響の大きいことには関与をしたがるということ。(利己的な人に)より積極的に関与してもらうためのアジェンダ設定が重要。

⇒個の自律的な関与を促す会議体やアジェンダの設計は?

・教育ができない
管理組合には、当たり前ですが、普通の組織にあるいわゆる教育という概念がありません。多様性の記述とも重なりますが、本当に良くも悪くも色々な人がいるので、構成員のマンションに関する知識や資産・金銭に関するリテラシーは千差万別。また、ビジネスであれば知識の多寡はあれど論理と言う共通言語がありまともな議論がしやすいですが、これも人それぞれ。かと言って、構成員のレベルを上げよう、という教育はほとんどできず(説明会くらいの表層的なものはありますが)、自主的な学習にゆだねるしかないのが実情ではないでしょうか。

⇒知識やスキル向上に対する強制力がない中で、教育から学習へのシフトは可能か?

・ナレッジの蓄積が困難
組合活動に参加する人の偏りも理由の一つですし、理事会メンバになる人が持ち回りであること、あるいは大きな事案(例えば大規模修繕)などは頻度がさほど高くないため前回担当者が既にマンションを出ていたり高齢になっていたりすることなど、組合運営のナレッジが蓄積しにくい環境があります。マンション管理組合はある種それを商売のタネにしているところもあって、うまく情報の非対称性を残しつつ、アウトソースのうまみを得ている構造もあります。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どのようにチームとしてのナレッジを蓄積するか?

・全員が兼業
マンションの住人は、当然皆、会社員から主婦まで自身の主たる顔があり、組合活動は専務ではなく兼務となります。本当は大きな資産のはずで優先度は高くあるべきにも関わらず、組合活動はかなり生活の中におけるOne of them感があります。これを、どうバランスするか、時間を作るか、インセンティブを持ってもらうか、結構難しい課題です。

⇒並行して複数のプロジェクトを持つプロ同士が集まるチームの時間の作り方や関与のインセンティブは?

・短期的な視点への偏り
多様な立場の構成員からの声をまとめ、合議的に議論を進めると、どうしても確かなゴールを共有できる短期的な施策に議論が陥りがちです。マンション保有の目的が異なり、この後保有する期間も人それぞれであるため、どうしても不確かな未来の話は先延ばしになりがちです。本来は、ただのメンテナンスだけではなく、資産としてのバリューアップも組合は検討すべきなのですが。法人でいうところのミッションや中長期でのビジョンを描きにくい(というか持っていない)のです。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どうすれば共通の「大きな」ゴールを持ち中長期的な視点で取り組みを進められるのか?

・利己的な考えがベース
利他と利己という考え方がありますが、どうしても利己的な考え方に陥りやすいように感じます。まずベースとして多様な赤の他人同士、会社以上に他人への理解と寛容が難しい。また他人に積極的に関与することが良いのかという共通認識が得られにくい問題もあります。さらには、会社と違って皆の目的が一つではないので、その目的のもとに名目上一つになって利他的に動くことを強いるのも難しい。
会社でも程度の差はあれこれらの状況はありますが、ただあまりに利己的な人は周りの目もあり相当働きづらいし、会社は人事というパワーを持つのである程度秩序が保たれます。一方、マンションでは他人の目はあり交流がなくなり住みにくさはあっても、別に孤立さえ受け入れられれば暮らし続けることは全く可能です。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、チームとしての最適をどのように追求できるか?(利他がいいのか、利己でもいいのか)

・(番外編)場外での工作
何かの事案の決議において、組合の総会では不参加の人は委任状を出す(同じ住民の誰かに委任、白紙なら理事長に委任が一般的?)という制度があります。これを、自分にとって都合の良い結論に持っていくために、自分の住民ネットワークを使って委任をうまく集める人がいるんです。ちょっとした工作ですね。

⇒よりメンバの動きに目の行き届かなくなる組織形態において公正さや秩序をどのように保つか?(既存の組織形態でも意思決定における場外での工作は公然とあるわけですが)


書いていたら長くなりました。別に管理組合への不平不満があるわけではありませんので念のため(笑)

結構、今後新しい組織やチームのあり方、個々人の関わりのあり方を考える上で、共通的な課題がありそうな気がしています。「フラットで多様性のある組織」でうまくやっている例はないか、少し探してみたいなと思います。

2013年9月4日水曜日

差別化のジレンマ -差別化も行き過ぎると類似性に目が行く-

「過ぎたるはなお及ばざるが如し」というのは、ビジネスにおける商品やサービスの「差別化」についても言えるようです。感覚的にはまあそうだろうなというところですが、わかりやすくまとめられていた記事があったので簡単に引用して備忘的に考察。

引用するのは、ハーバード・ビジネススクール教授ヤンミ・ムン氏の著書『ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業』を紹介したDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの記事。「棚に並ぶシリアルは、どれも同じに見える」とか「激しく競うほど、互いの違いは小さくなる」とか。

記事では、「差別化」について次のように述べられています。
企業は一丸となって競い合ってはいるが、意味のある違いを生み出すという使命を見失っているように見える。激しく競えば競うほど、互いの違いは小さくなり、精通したプロでなければ見分けがつかなくなる。要は、類似性ばかりが目につくのだ。消費者の心の中では製品の区別がつかず、まぜこぜになっている。
卑近な例で言うと、私も先日久々に食パンを買いに行くことになってスーパーでパンコーナーに立ったのですが、(普段自分で買わないのもあって)本当に違いがよくわからなくて暫し立ちつくし、結果普通な品質そうで一番安いものを選択したということがありました。コモディティだからと言ってしまえばそれまでなのですが、ポイントは食パンメーカーは差別化をしていないのではなくて、競合がお互いに差別化を検討しまくった結果、現状のような似たり寄ったりな状態になっているということです。

差別化をするということは、その分、差別化すべきポイント(つまり顧客が判断すべきポイント)が増えるということです。単純化しますと、食感で差別化できていたけど競合にキャッチアップされたから忙しい朝食シーンを想定して食べやすさで差別化しよう、おっとまた競合がキャッチアップしてきたから今度は健康をアピールできる成分で・・・というような感じで、次々と差別化ポイントが増える。

これは差別化ポイントが増えると同時に、キャッチアップされて同等になった類似点が増えてきているということを意味します。つまり、最初は差別化ポイントの方が目立っているのですが、次第に類似点が目立ってきて、合わせて差別化ポイントそのものの顧客から見た重要度が下がってくる(どうでもいいポイントで差別化するようになる)という現象です。

このような企業側からした目線に加え、ヤンミ・ムン氏は「プロは違いに注目するが、素人は類似点に目が行く」という表現を使って顧客側の目線でも差別化の罠を表現しています。テクニカルな差別化に走る企業側、それを見極められない顧客側、双方の理由から差別化が行き過ぎると類似性に目が行くというジレンマが説明できます。

じゃあどうすればいいのかという点、もしかしたらこのシリーズの続きで明らかにされるのかもしれませんが、差別化という文脈で言うと「顧客にとって意味があり、他社にはキャッチアップできない差別化要因を見い出す」ということに尽きるのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎて、なんだそれは、なのですが、マーケティングの意味合いが矮小化され、手段としての「差別化」が目的にすり替わり独り歩きしていることも多いと思われる中で、本来の手段としての差別化の狙い(顧客にとって意味のある自社にしかできない価値を提供する)を改めて考える必要があるのではないでしょうか。

ただ、これ言うは易しで、しかも製品ライフサイクルの後期の段階でこれをやろうと思っても基本的には難しいのではないかと思います。製品を立ち上げる際に、コアの差別化要因として、そのような持続可能性の高い差別化要因を構築する必要があるということです。

では、既にある程度製品ライフサイクルが成熟の時期に差し掛かっていて、且つ競争環境が激しい場合はどうするか。これは「差別化」から「価値転換」へ戦略をシフトするしかないのではないでしょうか。既存のルールの中でしのぎを削るのではなく、新しいルールや枠組みを作るという転換です。例えば、パンで言えば、「栄養を取得するもの」から「忙しい朝をより充実したものにするもの」と価値自体を置き換える、あるいは、既存顧客とはニーズや利用シーンの異なる独居高齢者や老老世帯にとって価値のあるものを創出する、など。

私の今いる業界はBtoCではないのですが、それでも、差別化のジレンマ、競争市場での差別化の行き過ぎによる程度の低い価値訴求が割と蔓延してきていると感じていたところでしたので、ツラツラと書いてみました。