2013年6月26日水曜日

動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-

タイトルが全てではあるのですが、「内発的動機づけ」によって動機づけられた人の動機は、「内発的動機」なのかという疑問をここ数日持っています。少し言葉遊び的ではあるのですが、それって内発的なのか、という疑問です。

ここで言う内発的動機とは、外発的動機と言われるアメとムチ的な義務や強制、その見返りとしての安定や金銭的報酬といった動機付けに対して、本人の感じるやりがいや欲求、好奇心といったものをベースに賞罰に依存しない自発的な行動を促す動機づけを意味しています。専門ではないので厳密な定義では少し違うかもしれませんが、一般的に言うところの内発的動機です。

そのような疑問を持ったきっかけは、たまたま読み進めていたリチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』にあった下記の一節です。
(前略)人々に内在する動機を頼みに非常に微妙な管理を行う。企業はアメとムチよりも、むしろ動機づけや説得を試みる。実のところ、私たちにもっと働けとそそのかしているのだ。そして、私たちはかなりそそのかされたいと望んでいる。(中略)私はこれを「ソフトコントロール」と呼んでいる。
非常に有効なソフトコントロールの一つに、やりがいがあげられる。(中略)これらの動機が機能するように、従業員自身に業務内容を定義させ、責任を重くし、かつて経験したこともないようなやりがいに直面させるのである。より開発の進んだ次の新製品、新しい締切、新しい競争相手が次々登場する。
いや、まさに「内発的動機づけ」とはこういうことなのですが、時代は、と言うよりも一定の知性や能力を持った人は一歩先に既に行っていて、上記のような認識を本人自身が持っていると思うのです。つまり、「ああ、この会社(あるいは上司)に私は内発的動機づけをされている」と悟られていて、動機づけする側の意図が完全に透けて見えている。そこから生まれる動機は内発的動機と呼べるのでしょうか。

もちろん、外発的動機のアメとムチが未だに機能している組織や社会、もしかすると一部特定職種などがあるように、内発的動機(もどき)に動機づけられる(フリをする)人や組織もあるとは思います。むしろ大半はそうでしょう。わかっていながら、ケースバイケースであえてその呼び水に乗ることもあると思います。

ただ、それはもはや金銭などのハードでないだけで、ソフトなアメによる報酬でしかないと感じます。つまり今あまねく組織でもてはやされている内発的動機付けによる動機も、もはや一つの外発的動機と言ってもいいのではないでしょうか。

ここまでの論理展開は組織に属する人の動機を前提にしています。組織に属する以上、全くの内発的動機など実はないという身も蓋もない話かもしれません。

内発的動機づけを超えた理論というのはあるのでしょうか。外発であれ内発であれ、そもそも「動機づけ」という時点で、そんなもの他人に委ねることなのかと思いますし、個人的には感覚に合わない。それは組織のあり方とか、働くことの意味とか、個人と組織の関係とか、そう言ったより上位概念での社会システムの進化が今求められているということなのかもしれません。

2013年6月20日木曜日

カンの限界を超える創造の方法論 -KJ法の生みの親:川喜田二郎『発想法』を読んで-

川喜田二郎というと、誰それ?という人も多いと思いますが、KJ法というと、あーなんか聞いたことある、整理学の手法か何かだっけ、という人が多いのではないでしょうか。

何を隠そう私自身がそんな感じで、ろくに原著やその背景にある考え方に当たることなどせず、インタビューやブレストで出てきたトピックをポストイットか何かに書き出して、それを意味合いの近いもので括っていくことで、断片的な情報が体系的に整理でき、それを組み合わせたり並べ替えたりすることで、「課題は大きく言うとこの3つです」的な整理ができたり、課題の連鎖的なものをストーリー化できたり、みたいなことが、KJ法に対するザックリとした理解でした。

このKJ法について記された書籍がありまして、それが『発想法』『続・発想法』です。ちなみに『発想法』は1967年発刊です。こんなに息の長い方法論だとは勉強不足だったのですが、今にも通用する内容が多く、普遍的なものだからなのか、それともこの分野に目立った発展がないのか、よくわかりません。少し話はそれますが、ブレインストーミング(ブレスト)についても書かれていて(発案は別の人)、これもなんと1950年頃に考案された手法だそうで、「人の意見を否定しない」「ばかげたことでも自由に意見を出す」「量を重視する」「他人のアイデアに便乗し発展させる」といったルールも当時からあったそうで、これもまんまだなと驚きました。

この書籍を知ったのは、とあるブログで、最近「デザイン思考」とか「人間中心のデザイン」とか言うけど、その方法論の背景にある考え方って川喜田二郎がKJ法でまとめた考え方とすごく近い、というような記述を見て、そんな考え方が背景にある方法論だったのかと興味を持ったのが改めてちゃんと読んでみようと思ったきっかけです。

方法論の詳細については、他にも色々と記事や文献があるようなので詳細はそちらにゆだねますが、有名ないわゆるKJ法の解説以外にも、下記の「W型問題解決モデル」というような科学やその他の各種問題解決に活用可能な手法もまとめられています。これなんかはまさに製品・サービスの対象となる人間の観察を起点にした「人間中心のデザイン」にものすごく近い印象。そもそもが川喜田氏自身も文化人類学者です。

川喜田氏は下図のA→D→E→Hの思考レベルに閉じた科学を「書斎化学」、D→E→F→G→Hの推論からスタートする実験観察を通じた科学を「実験科学」、A→B→C→Dの問題提起から予断を持たず現場での探索観察を通じて仮説を作り出す科学を「野外科学」と呼んでおり、実はKJ法というのはこの「野外科学」において探索観察で得られた情報を統合し仮説という発想にまとめ上げる手法なのです。



『発想法』の副題は「創造性開発のために」です。結びに下記のようにあるように、川喜田氏がまとめあげようとしたのは「整理の方法論」ではなく「創造の方法論」なのですね。その点は大いに誤解をされているように思います。(私だけ?)
この発想法は、分析の方法に特色があるのではなく、総合の方法である。はなればなれのものを結合して、新しい意味を創りだしてゆく方法論である。分析的な方法だけではわれわれの世界は不十分である。
さて、少し取りとめがなくなってきましたが、最後になぜ川喜田氏がこのような創造の方法論をまとめようと考えられたのかという背景にある考え方が面白かったので、そのエッセンスを抜き出しておきます。平たく言うと、日本人は創造を生み出す資質はベースとしてあるのに、変に小器用でそれに頼るものだから、その能力を超える難題になると途端に路頭に迷う。そこで元々ある資質をうまく生かしつつ体系的に事に当たれる方法論があるとすごく強いのではないか、というようなことかと思います。これはすごく実感値ありますね。
日本人は「理論信仰」と「実感信仰」の両面をもっているが、(中略)いざというい土壇場のところでは、理論はとらずに実感信仰をとるくせに、表面的にはいかにも理論を信じているように自分も思い込むし、ときにはそのようなジェスチュアもするのである。すなわち、最後は日常体験ないし「生活の知恵」のようなもののほうを信頼しているくせに、頭のテッペンでは、輸入した中国の古典的理論や西欧の理論などを信じている。この双方のあいだに関連がない。 
アメリカ人は、ものごとの一つ一つの概念を、鮮明な輪郭で取りだす傾向がある。(中略)概念をとりまいてはっきり限定を加える輪郭のないのが、日本人の世界らしい。 
アメリカ人は、おのれという個人主義のカラが固く、そのおのれを外へ征服的に押しつけることにのみ急になる欠点がありはしないか。つまり、自分の青写真にあわせて「外界」を料理しようという一面への偏りすぎが・・・。(中略)日本人は足もとの体験からなにかを「総合する」という個人的能力が、ある意味でアメリカ人よりもすぐれていると思う。 
日本人は体験を総合化するという直観力にすぐれているために、かえってその武器に初めから終わりまでぶらさがろうとする。(中略)いくら日本人が直観的総合力、状況判断の洞察力に優れているといっても、それは現実が比較的単純な場合にだけ可能であるにすぎない。現実が複雑になってきた場合には、直観だけで一挙に総合化することは、何びとといえども不可能なのである。それにもかかわらず、日本人は一次的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。
そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである。息の短い直観的総合力と、それに伴う息の短い創造性。それでものごとが処理できないと、たちまちにして模倣に転ずる。 
小さな直観的総合能力、小さなヒントのひらめきを、事実に密着しながら、大きなひらめきに組み立ててゆく方法を日本人はもっていない。それ以上に根気よく積み上げる道に対して、はじめから投げだしてかかっているように思われる。
川喜田氏の功績(上から目線。。)は、カンに頼ってきた暗黙知の世界を体系立てて方法論としたところにあるかと思います。真意が正確に理解され、最大限に活用されているかというとそうではない印象です。

ご参考までに、現代で言うと、私の中ではデザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏のアプローチが、なかなか形式知化しにくい領域で方法論をまとめておられるという意味ですごく近いなあと思っています。過去にまとめた記事を参考までに置いておきます。

イノベーション:7つの落とし穴 -整理ではなく創造のためのイノベーション・フレームワーク-

アイデア創出の処方箋「バイアス崩し」 -Ziba濱口秀司氏プレゼン@TEDxPortland-

2013年6月16日日曜日

当たり前過ぎることをできないと高い山には登れない -登山家であり起業家、山田淳氏の講演を聞いて-

久しぶりの投稿です。2013年初投稿が6月、しかも前回が昨年の8月。。誰に求められているものでもないですが、なんとも間が空きすぎました。特に再開をするキッカケのようなものがあった訳ではないのですが、少し考えるべきことも多くなり、その時の考えごとに直接関係がなくとも思考やインプットを整理していこうかなと思っているところです。

さて、先日、登山道具レンタルビジネスの起業家である山田淳氏の講演をお聞きし、少し意見交換させていただく機会がありました。氏の経歴ややられていることは、下記の記事がわかりやすいです。

新世代リーダー 山田 淳 登山ガイド 山の世界から見る新しい日本

特にその経歴(灘・東大→七大陸最高峰最年少登頂記録→マッキンゼー→起業)がとにかく目を引きますが、ご本人は親しみやすいキャラクターと軽妙なトークで人を惹きつける方で、氏の登山ガイドを受けた人は「山田さんファン」になり、「どの山に登りたいかより山田さんと登りたい」という状態になるそうです。「そこに山があるから」ではなく「山田さんと登れるから」という(笑)

講演では七大陸最高峰登頂の話を中心に、直近の起業も絡めたお話もお聞きできました。月並みすぎますが、(色々な比喩での)「山に登る」ということに対して、山田氏がどのようにアプローチされているのか、私の得たことを整理します。

・目的を忘れない
七大陸最高峰最難関のエベレストの登頂ともなると、常人の想像を超える世界。実は常に登り続けている訳ではなく、ベースキャンプ(既に5300m!)を拠点に少し登っては戻り、また少し目標の高さを上げて登っては戻りを繰り返し、体を順応させながら、その少しずつ上げる目標の高さを頂上に持っていく作業を2カ月程繰り返すのだそうです。

登るという行為自体の難しさももちろんありながら、これは精神力の世界。体力を削がれながら、体重は5kg減り、常に二日酔いのような状態(高山病)で2カ月登ったり下ったりを繰り返す訳です。そして道中には死体が転がっている。そうなると、皆、頂上を目指すという当初の目的を忘れ、やれスペイン隊は調子がいいらしいぞ、などと横との比較をし出すようになるそうです。また、頂上目前のキャンプにはそこまで登ってきている各国の隊が最後の登頂へのアタックの準備をしているそうですが、先頭を切って出ると登頂のためのロープを氷壁に張る作業をしなくてはいけない(体力を消耗する)ことから、どこか他の隊が出たら即後ろを2番手で追随できるように様子見をジリジリとするそうです。

本来は山と向かい合っているのに、いつのまにか横との戦いに目的がすり替わってしまう。山田氏は最後のキャンプから頂上へのアタック、頂上に登ることができればそれでいいという考えで、先頭で飛び出していったそうです。

・既存のやり方に囚われない
山の業界はすごくプリミティブな業界だそうで、いわゆる昔からの通説が幅を聞かせているそうです。その一つが、山に登るには山に入って研鑽を積むしかない、という考え。エベレストアタック前にも普通は近くのエベレストに次ぐクラスの山を登ることで順応していくのが通例だそうですが、山田氏は、そこでの体力消耗や期間・お金がかかりすぎるということから、日本の低圧トレーニング施設に通わせてもらう交渉をしそこでトレーニングを積んだそうです。

また、現在手掛けている登山道具レンタルも然り。今までは素人も富士山に登るために総額10万円程の装備を準備しないと参加できないような障壁の高かった世界に、レンタルという(他業界では当たり前の)考え方を導入。富士山に登る人は別にこれから本格的に登山を始めようとしている人ばかりではなく、もっと気軽に登れればという潜在的な顧客がいるのではないかという分析をベースに事業を始めたところヒットしたそうです。

・小さな決断を積む
「七大陸最高峰最年少登頂記録!」「マッキンゼーという経歴を捨て登山というビジネス不毛の地で起業!」といったように、脚色も含め結果として大きな決断をしたように結果論としては見えがちです。これはご本人も話されていたことですが、七大陸最高峰登頂はある書籍を読んで俺もできるかもというノリから始まったそうですし、起業も元々山がバックグラウンドでそこでミッションを持つ者としてはリスクはあまり感じなかった、むしろこれまでの経歴をフルに活用してやるというくらいで、ということです。

逆説的ですが、大きな決断に見えるところに、実は大きな決断はない、ということなのかもしれません。始めは、シンプルに「やりたい」「やるべき」というところに素直に一歩実行をするところから始まり、その後にやるべきことを目的に照らして慎重に細分化し、小さな決断を頻度高く繰り返すことに成功のヒントがあるのではないかという印象を受けました。

・戦略的に準備する
当然登り始めたら体力や技術がないと登れないのは事実ですが、お話を聞いていると登るための状態づくりが登頂の成否を大きく決めているように感じました。山田氏の言葉を借りると「成田を出た時点で80%成功している」とのこと。エベレスト登頂には学生バイトでは賄いきれない多額の資金を必要とするため、うまく「最年少記録」(本人はどうでもよかったらしい)を梃子にスポンサー集めをしたり、上述のように目的のために分析的に打ち手を導いたりと、事前の準備に緻密な計算があります。

「実行までに時間をかける」ということと「準備を怠らない」ということは似て非なるものであるということを再認識しました。


書いてみるとあまりに当たり前すぎる話。当たり前過ぎることをできないと高い山には登れないという証左でもあるように思いました。(まとめ方が悪いという噂も、笑)