2013年9月28日土曜日

セレンディピティとは発見の力ではなく解釈の力? -情報のインプットと解釈 について再考-

少し、情報のインプットと解釈について再考したい気分。結構当たり前な話かもしれませんが。

まずは、情報を扱う目的から改めて考えます。今回、目的は、ビジネス、特に新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような場合に絞ります。

新規事業や既存の枠組みに収まらないサービスを考えるというような際に、必要なこととしてよく言われることは、「問題発見」や「問題解決」ではなく、「問題設定」そのものである、ということです。今ある問題整理のフレームワーク、業界の構造、そういった既存の枠組みを前提にした発見と解決を是とするのではなく、その枠組み自体を見直し、問題そのものを定義・設定するという考え方です。

「問題発見」も「問題設定」も、目の前にある事象や耳にした事象をインプットし、解釈して、思考するというプロセスにおいては、いずれも情報処理であると言えます。では、問題発見で留まるか、問題設定まで遡れるか、何がそれを分けるのかということが次に問題となります。

情報という観点では、既存の枠組みで考えるということは、意図的なものの見方による「意図した情報」と言い換えることができそうです。これが問題発見的アプローチ。一方で、既存の枠組みでは解釈が難しい情報は「意図しない情報」となります。これが問題設定の源泉。一方で、問題発見であろうと問題設定であろうと、その情報が「有用か」「有用でないか」という軸があります。わざわざ図にするほどでもないですが、以下のような感じ。



このマトリックスで考えると、問題設定に求められる情報は、いかに右上のオレンジ枠の「意図しない有用な情報」を扱えるかということだと思われます。わかりやすい言葉で言うと、セレンディピティ(Serendipity)でしょうか。ただ、ここで気にしなくてはいけないことは、人の情報処理における一次的なインプット段階において、情報は一旦ブルーの枠に放り込まれるということだと思います。まあ考えれば当たり前なのですが、左下のグレーの枠は意図している枠組みの中で有用ではないものなので即オミットできますし、右上のオレンジの枠は意図していない訳なので最初は有用性に気付かずいきなりここに入ってくることはない。

そう考えると、オレンジ色の「意図しない有用な情報」を扱うということは非常に高度な技術であることがわかります。なぜなら、意図していない、枠組みの存在しない中に飛び込んできた情報に、縦方向の有用かそうでないかの「解釈」を入れる必要があるからです。しかも、その「解釈」は単純にAだからBといったような線形なものではなく、循環したり、ジャンプしたり、クロスしたり、アナロジーだったり、うまく言えないですが「発想」のようなものが加味されたものになります。

最近まで、私の中ではオレンジの枠を増やすためには、いかに自分の専門外や一見関係なさそうな情報に触れる機会を作るかとか、いかに全く世界の異なる人に会うかとか、その量を増やすために、情報の種類やカバーを意識してきていたように思います。つまり、オレンジの枠にいきなり放り込むことを考えていたのかと。もちろん、そういった機会を作ること自体は重要です。それがないと情報が全く入ってこなくなるので。

一方で、アンテナを張るということそれ以上に、入ってきた情報をいかに丁寧に色々な角度から解釈するかということの方が重要なのではないかと考え始めています。つまり、右下のブルーから右上のオレンジに情報を移す作業に時間をかけるということです。時間は有限で、ゴールはオレンジの枠を増やすことですから、むしろ情報ソースを減らすことで解釈に時間や意識を集中するということも一手なのかもしれないなと思っています。

ここで改めてタイトルのセレンディピティ(Serendipity)という言葉に触れますが、これまで書いてきたような文脈で、意図しなかった意味あるものとの遭遇、という意味合いでよく使われる言葉です。Wikiによると下記の意味合いだそうです。
セレンディピティ(英: serendipity)は、何かを探しているときに、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。
まあ、表層的な現象だけ捉えると「見つける」という「発見」の力なのですが、その本質は上述のようにブルーからオレンジに持っていく「解釈」の力なのではないかなと思ったり。

最後に、「解釈」の力が、「意図しない有用な情報」の取り扱いやセレンディピティにおいて重要だというと、陥りそうなジレンマについて。そのジレンマとは、解釈というものは、そもそも自分の中にある既存の枠組みや思考に規定されがちということです。右下に入ってきた情報を解釈しているうちに、左上とか左下とか既存の枠組みの中に無理やり情報を押しこむ解釈するという、本末転倒な結果に陥る可能性があるということは、かなり意識しないといけないポイントなのかと思います。
(これを防ぐには何が必要なのかというところが鍵なのですが、まだ考えがまとまらないため、結論のないまま今回は終わります)

2013年9月23日月曜日

フラットで多様性のある組織 -マンション管理組合に考える新しい時代の組織論-

実は最近マンションの管理組合の手伝いをすることがあって、色々と考えさせられることがあります。いや、まあ一番は、面倒くさい、ということなんですが(笑)、それでも一つの経験かなと思って色々と観察(?)をするようにしています。

いくらか管理組合に関わってみて思ったことは、管理組合というのは、多分世の中で最もマネージすることが難しい組織の一つなのではないかということ。難しくしている要因は、その構成員の多様性と全員平等というフラットな組織構造にあります。

さて、ビジネスにおける一般的な組織論として、大企業的なピラミッド型の組織や古いヒエラルキーはこの変化に富み先の見えない世の中では古い、これからは、多様な人材一人ひとりが何かのプロフェッショナルとしてチームを構成し、フラットな関係で仕事をする時代だ!みたいな論があり、イメージとしてはそれって理想だよねと思っている人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人。響きはいいんですよね、「フラットで多様性のある組織」。ただ、そのような論自体は特に新しくもないわけですが、意外とそのような組織転換をしてうまくいっているケースを周りではあまり聞かないです。(本当のプロ職で構成される業界では、過去から含め例はいくらでもあるのだと思いますが)

そこには「フラットで多様性のある組織」のマネージが難しい要因があるのではないか、そういえば、マンション管理組合ってまさに「フラットで多様性のある組織」ではないかと。ビジネスとはフィールドは異なれど、何かしらの目的を持って運営されている組織としてどうなの実際はということで、管理組合の組織としての特徴に関する観察結果を整理してみます。加えて、今後の組織のあり方について考える際の共通項も(⇒で記載)。

・構成員がとにかく多様
年齢や世帯構成、収入、買った時期、保有の目的(投資、住居、事業用など)など、とにかく構成員の属性や背景がバラバラ。一つのこと決めるにもあまりに多様な見方や意見があります。中古は特に。

⇒多様性をうまく活かす方法にはどのような組織が最適か?

・民主的な(衆愚的な?)意思決定
様々な議決事案に対して、住民は基本的に全員平等に一票ずつ。良く言えば民主的な意思決定ではありますが、一方でフラットで合議的な意思決定の難しさがあります。衆愚というと言い過ぎかもしれませんが、本当に色々な人がいるので、論理ではなく感情や感覚論で意見が飛び交うこともしばしば。また、昔から住んでいるとか地域に顔が効くとか、声の大小も結構ある。
結局議論を尽くしてというよりも、多数決で物事を決めざるを得ない状況も多く、不満や議論で戦ったしこりが残ることもあります。逆に、規約にもよりますが、3/4以上の賛成がないと決められなかったり変えられなかったりする事案もあり、意思決定が不全に陥る可能性もあります。

⇒全員がイコールパートナーの組織における意思決定の最善解はあるのか?

・責任だけで権限のないマネジメント
管理組合で言うと、理事会や委員会(修繕委員会など)がある種のマネジメントチームとなるでしょうか。理事会の専任事項については責任と権限が伴うのですが、組合の総会に諮らなくてはならない事案については、マネジメントチームで方向性は出すものの、総会で否認されればボツ。責任はあるものの権限はないに等しいケースも多々。
そして、そのマネジメントチームとして働くインセンティブはと言うと、有形の報酬はおろか無形の報酬もないのが実態かと。名誉職か輪番でお鉢が回ってきていやいやがほとんど。

⇒全員がイコールパートナーの組織におけるマネジメントとは?責任と権限、報酬の設計は?

・参加者が固定化される会議体
組合の総意で決定すべき事案がある場合など総会が開催されるのですが、ここに参加するメンバは割合固定化されていきます。やたら積極的で意見をばんばん出す人と、全く関心のない人と二極化。一方で、大規模修繕など、大きな金銭が関わる事案にはいつもにない人数が参加する。つまり、人は結局自身が関心あること、自分にとって重要だと思われること、影響の大きいことには関与をしたがるということ。(利己的な人に)より積極的に関与してもらうためのアジェンダ設定が重要。

⇒個の自律的な関与を促す会議体やアジェンダの設計は?

・教育ができない
管理組合には、当たり前ですが、普通の組織にあるいわゆる教育という概念がありません。多様性の記述とも重なりますが、本当に良くも悪くも色々な人がいるので、構成員のマンションに関する知識や資産・金銭に関するリテラシーは千差万別。また、ビジネスであれば知識の多寡はあれど論理と言う共通言語がありまともな議論がしやすいですが、これも人それぞれ。かと言って、構成員のレベルを上げよう、という教育はほとんどできず(説明会くらいの表層的なものはありますが)、自主的な学習にゆだねるしかないのが実情ではないでしょうか。

⇒知識やスキル向上に対する強制力がない中で、教育から学習へのシフトは可能か?

・ナレッジの蓄積が困難
組合活動に参加する人の偏りも理由の一つですし、理事会メンバになる人が持ち回りであること、あるいは大きな事案(例えば大規模修繕)などは頻度がさほど高くないため前回担当者が既にマンションを出ていたり高齢になっていたりすることなど、組合運営のナレッジが蓄積しにくい環境があります。マンション管理組合はある種それを商売のタネにしているところもあって、うまく情報の非対称性を残しつつ、アウトソースのうまみを得ている構造もあります。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どのようにチームとしてのナレッジを蓄積するか?

・全員が兼業
マンションの住人は、当然皆、会社員から主婦まで自身の主たる顔があり、組合活動は専務ではなく兼務となります。本当は大きな資産のはずで優先度は高くあるべきにも関わらず、組合活動はかなり生活の中におけるOne of them感があります。これを、どうバランスするか、時間を作るか、インセンティブを持ってもらうか、結構難しい課題です。

⇒並行して複数のプロジェクトを持つプロ同士が集まるチームの時間の作り方や関与のインセンティブは?

・短期的な視点への偏り
多様な立場の構成員からの声をまとめ、合議的に議論を進めると、どうしても確かなゴールを共有できる短期的な施策に議論が陥りがちです。マンション保有の目的が異なり、この後保有する期間も人それぞれであるため、どうしても不確かな未来の話は先延ばしになりがちです。本来は、ただのメンテナンスだけではなく、資産としてのバリューアップも組合は検討すべきなのですが。法人でいうところのミッションや中長期でのビジョンを描きにくい(というか持っていない)のです。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、どうすれば共通の「大きな」ゴールを持ち中長期的な視点で取り組みを進められるのか?

・利己的な考えがベース
利他と利己という考え方がありますが、どうしても利己的な考え方に陥りやすいように感じます。まずベースとして多様な赤の他人同士、会社以上に他人への理解と寛容が難しい。また他人に積極的に関与することが良いのかという共通認識が得られにくい問題もあります。さらには、会社と違って皆の目的が一つではないので、その目的のもとに名目上一つになって利他的に動くことを強いるのも難しい。
会社でも程度の差はあれこれらの状況はありますが、ただあまりに利己的な人は周りの目もあり相当働きづらいし、会社は人事というパワーを持つのである程度秩序が保たれます。一方、マンションでは他人の目はあり交流がなくなり住みにくさはあっても、別に孤立さえ受け入れられれば暮らし続けることは全く可能です。

⇒プロジェクト単位でチームを構成して離合を繰り返す組織で、チームとしての最適をどのように追求できるか?(利他がいいのか、利己でもいいのか)

・(番外編)場外での工作
何かの事案の決議において、組合の総会では不参加の人は委任状を出す(同じ住民の誰かに委任、白紙なら理事長に委任が一般的?)という制度があります。これを、自分にとって都合の良い結論に持っていくために、自分の住民ネットワークを使って委任をうまく集める人がいるんです。ちょっとした工作ですね。

⇒よりメンバの動きに目の行き届かなくなる組織形態において公正さや秩序をどのように保つか?(既存の組織形態でも意思決定における場外での工作は公然とあるわけですが)


書いていたら長くなりました。別に管理組合への不平不満があるわけではありませんので念のため(笑)

結構、今後新しい組織やチームのあり方、個々人の関わりのあり方を考える上で、共通的な課題がありそうな気がしています。「フラットで多様性のある組織」でうまくやっている例はないか、少し探してみたいなと思います。

2013年9月4日水曜日

差別化のジレンマ -差別化も行き過ぎると類似性に目が行く-

「過ぎたるはなお及ばざるが如し」というのは、ビジネスにおける商品やサービスの「差別化」についても言えるようです。感覚的にはまあそうだろうなというところですが、わかりやすくまとめられていた記事があったので簡単に引用して備忘的に考察。

引用するのは、ハーバード・ビジネススクール教授ヤンミ・ムン氏の著書『ビジネスで一番、大切なこと 消費者のこころを学ぶ授業』を紹介したDIAMOND ハーバード・ビジネス・レビューの記事。「棚に並ぶシリアルは、どれも同じに見える」とか「激しく競うほど、互いの違いは小さくなる」とか。

記事では、「差別化」について次のように述べられています。
企業は一丸となって競い合ってはいるが、意味のある違いを生み出すという使命を見失っているように見える。激しく競えば競うほど、互いの違いは小さくなり、精通したプロでなければ見分けがつかなくなる。要は、類似性ばかりが目につくのだ。消費者の心の中では製品の区別がつかず、まぜこぜになっている。
卑近な例で言うと、私も先日久々に食パンを買いに行くことになってスーパーでパンコーナーに立ったのですが、(普段自分で買わないのもあって)本当に違いがよくわからなくて暫し立ちつくし、結果普通な品質そうで一番安いものを選択したということがありました。コモディティだからと言ってしまえばそれまでなのですが、ポイントは食パンメーカーは差別化をしていないのではなくて、競合がお互いに差別化を検討しまくった結果、現状のような似たり寄ったりな状態になっているということです。

差別化をするということは、その分、差別化すべきポイント(つまり顧客が判断すべきポイント)が増えるということです。単純化しますと、食感で差別化できていたけど競合にキャッチアップされたから忙しい朝食シーンを想定して食べやすさで差別化しよう、おっとまた競合がキャッチアップしてきたから今度は健康をアピールできる成分で・・・というような感じで、次々と差別化ポイントが増える。

これは差別化ポイントが増えると同時に、キャッチアップされて同等になった類似点が増えてきているということを意味します。つまり、最初は差別化ポイントの方が目立っているのですが、次第に類似点が目立ってきて、合わせて差別化ポイントそのものの顧客から見た重要度が下がってくる(どうでもいいポイントで差別化するようになる)という現象です。

このような企業側からした目線に加え、ヤンミ・ムン氏は「プロは違いに注目するが、素人は類似点に目が行く」という表現を使って顧客側の目線でも差別化の罠を表現しています。テクニカルな差別化に走る企業側、それを見極められない顧客側、双方の理由から差別化が行き過ぎると類似性に目が行くというジレンマが説明できます。

じゃあどうすればいいのかという点、もしかしたらこのシリーズの続きで明らかにされるのかもしれませんが、差別化という文脈で言うと「顧客にとって意味があり、他社にはキャッチアップできない差別化要因を見い出す」ということに尽きるのではないかと思います。あまりにも当たり前すぎて、なんだそれは、なのですが、マーケティングの意味合いが矮小化され、手段としての「差別化」が目的にすり替わり独り歩きしていることも多いと思われる中で、本来の手段としての差別化の狙い(顧客にとって意味のある自社にしかできない価値を提供する)を改めて考える必要があるのではないでしょうか。

ただ、これ言うは易しで、しかも製品ライフサイクルの後期の段階でこれをやろうと思っても基本的には難しいのではないかと思います。製品を立ち上げる際に、コアの差別化要因として、そのような持続可能性の高い差別化要因を構築する必要があるということです。

では、既にある程度製品ライフサイクルが成熟の時期に差し掛かっていて、且つ競争環境が激しい場合はどうするか。これは「差別化」から「価値転換」へ戦略をシフトするしかないのではないでしょうか。既存のルールの中でしのぎを削るのではなく、新しいルールや枠組みを作るという転換です。例えば、パンで言えば、「栄養を取得するもの」から「忙しい朝をより充実したものにするもの」と価値自体を置き換える、あるいは、既存顧客とはニーズや利用シーンの異なる独居高齢者や老老世帯にとって価値のあるものを創出する、など。

私の今いる業界はBtoCではないのですが、それでも、差別化のジレンマ、競争市場での差別化の行き過ぎによる程度の低い価値訴求が割と蔓延してきていると感じていたところでしたので、ツラツラと書いてみました。

2013年8月23日金曜日

考えさせ、ただ見ているだけのマネジメント -『采配』を読んで-

最近組織や人の話がやたらと続いてしまっています。が、懲りずに続けます。

『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』といった以前のエントリで、「動機」や「意思」といったものについて考察し、それらを外から動機「付ける」ことや意思を「高める」ことなど可能なのかということを書きました。

もちろん人間なので誰しも圧力がかかれば最大瞬間風速的に動機や意思は高まるでしょうし、その効果は否定しませんが、それを持続的なものにするには「真に内発的な動機や意思」が必要なのではないかと考えています。どうも今流行りの「内発的」動機づけ理論はハードではなくソフトな手法を使っているだけで、まだ外発的な印象がするのです。それもあって、上記のエントリでは、「ハーズバーグの二要因理論」をヒントに、動機や意思を直接高めるのではなく、それらの発揮を阻害している要因を取り除くことが重要ではないのかという仮説を書きました。

「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」ということ以外に方法はないのか。

そんなことを考えている時に、前中日ドラゴンズ監督落合博満氏の『采配』を読みました。別に動機がどうとかいう目的で読んだわけではなかったのですが、示唆のある内容がありましたのでご紹介。

それは、落合氏の「選手に自分自身で考えさせる働きかけ」です。言葉にするとあまりに普通すぎるので内容を引用します。落合氏は中日ドラゴンズの監督の就任直後(秋頃)に下記のようなメッセージを選手に対して送ったそうです。
来年2月1日のキャンプ初日には紅白戦を行います。
私は野球にそこまで詳しくないので正しい説明ができるか自信はないですが、普通はオフシーズン明けはまずはオフになまった体の基礎を作り直し、各人の昨シーズンの課題に照らした練習を積んで実戦向けの状態を作り、今シーズンに向けての実戦練習として紅白戦をするというイメージです。それをなぜ最初にしたのか。落合氏のタネ明かしはこうです。
何か監督からの指導があるわけでもなく、いきなり紅白戦?
選手は色々なことを考えただろう。本当にキャンプ初日から紅白戦をやるのか。ただの脅しではないのか。初日から紅白戦をこなすためには何をすればいいのだろう。紅白戦の結果によって選手を振り分けるのだろうか。
私としてみれば、「新監督の謎めいたメッセージ」によって、選手たちが12月から1月の2ヶ月間、常に野球のことを考え、自分なりの準備に取り組んでくれればよかった。
何を隠そう、それが誰からも押しつけられたのではなく、自分自身で自分の野球(仕事)を考える第一歩だからだ。
(中略)
果たして、2004年2月1日に紅白戦を実施すると、選手たちはすぐにペナントレースが開幕しても戦える状態に仕上げてきた。
何というか、「動機付け」という行為はしていないのですが、選手が自分自身で考えるプロセスを通じて、結果として押しつけられずにまさに内発的に選手の動機が高まっている様子が窺えます。落合氏は「自分を成長させるのは自分しかいない」というような考えを持たれているようで、それがこのようなアプローチの背景にありそうです。

関連して下記のような記述もされています。
自由というものが最大の規律になる。
選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じ取ってやる。
私はコーチングの基本を「教えない。ただ見ているだけでいい」と定義した。実際に監督としてチームを預かることになり、「見ているだけのコーチング」が基本になることは確認できた。
自由ということを規律とし、自分で考えることを重視し、その考えを観察し感じ取る。適切なサポートをする。無理やり引き出すという感じではないし、押し付けもしない。そんなところが落合氏のチームや人のマネジメントの根幹にある気がします。

そして、動機の働く本質を「自分のことを自分で考えること」に置き、自ら考えるきっかけを与える「ゆらぎ」を起こすというやり方です。「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」のではなく、「機会を作ることで考えるきっかけを与え、目を配り、観察し、考慮する」という、手間はかかるがきめ細かで間接的なアプローチが有効なのではないかという仮説。そこには以前のエントリで書いた、動機や意思を発揮することを阻害する要因を取り除くことも含まれるのでしょう。

ただ、こういった方法論は、ある程度一人ひとりが自律的に動くことを求められるプロフェッショナル的な人材に対して特に有効な方法かもしれません。組織を選ぶ手法と言えるかも。手間もある程度かかりますし、その時間コストに対する大きなリターンが見込めるかどうかも重要なポイントかもしれないです。

どんな組織にも人にも適用できる方法論という考え方自体が間違っているのでしょうね、きっと。。

2013年8月12日月曜日

追補:能力と意思の暴走に理性の果たす役割 -『ノモンハンの夏』を読んで-

一つ前の『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』で、成果を決めるのは能力と意思で、どちらかというと意思が大事で、意思そのものを外発的に高めることって難しい(他の方法はないのか)ということを書きました。

その後にある本を読んで、この2つでは成果を上げるには必要であるが十分ではないと思うに至りました。成果を上げるために必要なもの、もう一つは「理性」です。「論理」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、いわゆる論理的思考力のような「能力」とは少し異なるニュアンスなので「理性」と書きます。

読んだ本は半藤一利の『ノモンハンの夏』です。1939年のノモンハン事件(Wikiにも詳しい説明あり)を描いたノンフィクション。多くの取材や文献をベースに関東軍の暴走が詳細に描かれており、ケースで読む意思決定の教科書と言ってもいい傑作です。中古で1円。。

・いかにして情報はゆがみ、誤った意思決定がされるのか
詳しくは一読いただければと思うのですが、関東軍の情報の主観的な選別、独善的な判断は相当にひどい。そして、陸軍としての下部組織(一出先機関)である関東軍をコントロールすべき中央のガバナンスもひどい。

著者半藤氏の関東軍への嫌悪感は相当なもので、その念みたいなものも一部感じられますが、私が読む中で拾った、関東軍の物事を進めるにあたっての誤った意思決定に至るエッセンスとして、思いつくだけでも下記のようなキーワードが挙がります。順不同。

まず根底にある独善的/主観的な情報への態度です。これらのバイアスが情報を適切に選別、分析、判断することをできなくしています。
思い込み、固定した先入観、都合の良い解釈、拡大解釈、楽観にすぎる見通し、実力の過信、弱みや現状の無視、主観的判断、過去の反省教訓化なし、自己正当化
次に、意図的/意識的な意思決定を曲げる行為。ここまで来るとバイアスということではなく、悪意のある謀略。
情報操作、意図的な情報選別、脅し、誘導、隠蔽、意図的に曲げた報告、見切り発車による既成事実化、越権行為
仕上げに、上記を加速/助長する組織文化。土壌として上述のような行為を看過する状態が出来上がります。
エリート「仲間」の馴れ合い、空気、誰が言ったかへの偏重

・能力と意思は暴走する
前のエントリに上げた、成果に必要なのは能力と意思という点。国力が当時どうだったかは置いておいて、関東軍に属した参謀たち(本件の主犯的人たち)は陸軍の中でもエリート中のエリートであり個人としての能力は文句なし、意思においても誤った方向ながら確固たる強い意思を持ち合わせていました。

では、なぜ能力と意思を押さえているのに成果(表現が難しいのですが、誤解を恐れず成果と書きます)が上がらなかったのか。また、成果が誤った方向に向かうのか。

意思と能力があれば、物事を進めたいとなるし、進められる。ここで重要となるのは、そのベクトルが正しい方向に向くか、手段は適切か、結果として方向性や手段が誤っている場合/失敗した場合に修正がきくか、だと思います。この役割を果たすのが「理性」、言い換えると客観的な「論理」であると思います。

本書の題材はかなり特異なシチュエーションと組織ですが、ビジネスにおける示唆もあります。ビジネスでもインパクトを追求する、未知の領域で新しいチャレンジをするには、不確実なゴールを追い、周囲の雑音をはねのけ、次々に訪れる様々な問題を解決して突き進む高い能力と強い意思が必要で、ある種の熱狂のようなものがそこには伴います。良い意味での暴走と言うか。むしろそうではないと新しく難しい問題には立ち向かえないこともあるように思います。

・理性を組織システムで補う
この「理性」を一人一人が能力と意思と合わせて三位一体で持ち合わせるのが理想だとは思います。ただ、上述のように、良い意味での暴走が必要となる場合、組織やチームとしてこの「理性」を担保できると強いのではないか。意思と理性の両立は思った以上に難しい。

ノモンハンの事例で言うと、組織のガバナンスが働かなかったことが悲惨な顛末を招いた要因の一つだと思います。それは関東軍の暴走を抑止できなかった、参謀本部の情報収集・分析の不足、監査の欠如(エリート間の妙な信用・馴れ合い)、権限・権力の適切な行使の欠如、組織構造ではなく人で動く意思決定、トップ層の原理原則のない意思決定などです。これらは能力がなかったということではなく、理性・論理を働かせる組織としての構造や態度がなかったということです。

・「誰が言ったかではなく何を言ったか」を根付かせる
ノモンハンの場合は上述したようにあまりに多くの暴走要因があったのですが、その中でも大きな影響を与えている、逆に言うとそれを克服できれば強力な歯止めになると思われるのは、「誰が言ったかへの偏重」であったのではないかと考えます。本書には、一部の「力」を持った陸軍エリートが意図的に情報の極解と独善的な判断をし、うまく陸軍という集団心理を悪用して押し切る様が克明に描かれています。これさえなければ、様々な情報への誤った態度や意思決定を曲げる行為の大部分は論理で抑止できたのではないか。

ビジネスでも、「誰が言ったか」に流されたり、もっと言うとその「誰か」に言わせることで社内を突破しようとすることもあるでしょう。私も正直に言って絶対ないとは言い切れない。これをいかに組織として「誰が言ったかではなく何を言ったか」をベースとできるかが肝だと思います。

DeNA南場氏の『不格好経営』でも同じような趣旨の記述がありましたね。
DeNAでは、「誰が言ったかではなく何を言ったか」という表現を用いて、「人」ではなく「コト」に意識を集中するように声を掛け合っている。誰かが言ったことが常に正しいと思ったり、誰かに常に同意するようになったら、その人の存在意義がなくなるし、”誰派”的な政治の要素ともなり、組織を極端に弱くする。
もちろん「理性」を個人で担保できれば、それにこしたことはありません。自分を常に客観視できる力。理性を意思と両立できるかは相当に高度な素養ですね。修練修練。。

2013年8月9日金曜日

成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-

最近、成果を上げている人、そうでもない人、その違いは何かと考えることがあります。成果を上げるために必要なもの、大きく分けると「意思」と「能力」だと思っているのですが、成果を決めるのは、どちらかというと「意思」ではないか、というのが最近の感覚です。

■意思が成果を分ける
情報や訓練の機会が充実している昨今、ある程度のレベルの仕事をしている人たちの間で「能力」の差は実はあまりないのではというのが一つ。もちろんよっぽど特殊、専門的、あるいは経験(時間)が必要となる能力となると話は違うかもしれません。また、「能力」は低ければ高める方法は(その人にある程度のベースがあれば)ありますが、「意思」は周りが強制的に高めることはなかなか難しいのも理由です。

具体的に日常の業務で考えてみても、「今日やることはきちんと今日やる」というのが仕事のベースだとすると、これを「こなす」のは意思がなくとも能力だけで何とかなります。ただ、それでは誰でもできること(やるべきこと)です。

これが「今日やることの質を今日やれる中でギリギリまで高める(粘って粘って質を高める)」「今日やることはきちんと今日やるを毎日一日も欠けずに続ける(高い質をコツコツと積み上げ続ける)」「明日やっても済むことを今日やる(優先度は低いが重要度が高いものから目を逸らさずに取り組む)」ということになると、能力だけで何とかなる世界ではなくなります。ここには明らかに「意思」が必要です。そして、これが成果を分けるところではないでしょうか。

■意思を持って仕事をするためには、失敗に備える意思が必要
上述のように、質を高めるために「こなす」ことでは必要のないチャレンジをする、絶え間なく続けることで行動の総量が増える、放置しようと思えばできるものにあえて手を出す、ということをすると何が起こるかというと、失敗する可能性が高まるということが言えると思います。

「こなす」ことで済ませるということはすなわち、人は失敗のリスクを無意識に避けているのかもしれません。リスクに気付きながらもあえて「こなす」ことを超えようとするには「意思」が必要なのでしょう。そもそも失敗をリスクとするのかどうかですが、失敗することで人は学習し活動の修正をすることができますから、失敗をうまく活用すれば、これも結果としては成果を高めるということにつながっているとも言えます。

■意思を高めることは可能か
仮に意思が成果のために重要だとして、どうすれば意思の力が働くか。最初に意思を高めることが難しいと書きましたが、世の中、ソフト/ハードで意思を高めようとする施策が流行っているように思います。動機づけ、コミットメントなどといったワードが連想されますが、どのような対象に、どのようなきっかけで、高い動機を持ち力を注ごうとするのか、これは人によりけりです。

そもそも意思というのは自律的なものであり、仮に周囲に高められることがあったとして、それを意思と言うのかは疑問です。これは、以前『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』というエントリで論じたことに重なります。そもそも周囲に意思を高めることができるのか。表面的には高まっているように見えても、中長期的に見ると外発的な圧力で人工的に高まった「意思」によって本来のその人固有の意思が押し殺され、逆に意思の希薄化が起こるのではないかとさえ思います。

■意思の発揮を阻害している要因はないか
私の不勉強で世の中的には有名なのかもしれませんが、最近「ハーズバーグの二要因理論」というものを知りました。本旨ではないので簡単に説明すると、人の仕事に対する満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるという裏表の関係(例えば給料が高ければ満足、低ければ不満)ではなく、満足に関わる要因(動機付け要因)と不満足に関わる要因(衛生要因)は別のものであるとする考え方です。つまり、仕事にやりがいを感じているので満足しているが、給与的には不満、という状態があり得るので、それぞれ個別に手当をしないといけないという理論です。

動機付けという言葉が使われているので少しワードが混同して話をややこしくしているのですが、意思を発揮するという観点でも、二要因理論的な考え方は当てはまらないかと思ったのです。つまり、意思が低いから高めればいいという話ではなく、意思は本来あるがそれを別の観点から毀損している(発揮できなくしている)マイナス要因があるのではないかということです。それは上述したような失敗に対する回避的な意識かもしれませんし、重要度の高い仕事に取り組めないほどの優先度に偏った仕事の圧力かもしれません。

意思を高める施策というのは活況ですが、こういったマイナス要因を取り除いてあげることが必要なのかもしれません。何の根拠もないですが、現時点での雑感として。

2013年8月4日日曜日

好き嫌いの経営 -『経営センスの論理』を読んで-

『経営センスの論理』読了。著者の楠木建氏は『ストーリーとしての競争戦略』の著者で一橋大学大学院教授。前著がなかなか面白かった記憶があったので手に取りました。内容はAmazonの書評にあるように賛否ありそうな感じで、良くも悪くも、ユルくて軽い。もともとハーバードビジネスレビューのWEBサイトに連載していたコラムを再構成した内容ということもあり、理論とか体系立った分析ではなく、まさにセンスで書いた散文を寄せ集めた内容。通勤電車でサクッと読む感じが丁度良いです。

タイトルにある「センス」についてはあまり深堀りされておらず、そこは残念。まあセンスの話はセンスでしかできないみたいなこともあるのか、論理立てて文章にするというのは難しいのだろうと思います。

ただ、寄せ集めの文章ならではの良い面もあって、それは読み手の解釈次第で散りばめられているエッセンスから何らかの意味合いを勝手に見いだすことができること。個人的に、本書には、経営における「綜合的なモノの見方」を考えるエッセンスが色々とあったかな、と思います。著者は、経営には「アナリシス(分析)とシンセシス(綜合)の区別」が必要で、「戦略の本質はシンセシスにある」と述べています。分析的なモノの見方だけでは事業を動かすとか経営(的な動き)をするといった場合には不十分、ということは、非常に重要なポイントであるように思います。

少し話がそれますが、DeNA創業者南場氏の『不格好経営』にも、コンサル出身者が事業をやる側に回る上でアンラーニング(学習消去)すべき点として、「何でも三点にまとめようと頑張らない。物事が三つにまとまる必然性はない。」を挙げていました。これ見た時あまりに的を得ていて笑ってしまったのですが、経営における物事は、常に三つにMECEにまとめられるほど単純ではなくて、もっとダイナミックにつながり影響し合っているし、デジタルに一定の軸で分解できないごにょごにょっとした何かを含むやっかいなものである。無理やり三つにまとめるという行為は、まとめている(=綜合)のではなく分解している(=分析)にすぎないということを言わんとしているのだと私は解釈しました。裏返すと、経営や事業を動かすにあたっての綜合とは、そういった分析的行為とは似て非なるものだと。

話がそれたついでに、上記に並べて南場氏が書いていたコンサル出身者へのアドバイスとして面白かったのが「自明なことを図にしない。」「人の評価を語りながら酒を飲まない。」「ミーティングに遅刻しない。」です。いやー、もう耳が痛いですね(笑)

話を戻します。

本書にある、経営における綜合的なモノの見方のエッセンスとして私が特に気になったものは、「好き嫌いをどう経営に織り込むか」「商売は自由意志」という2点です。

「好き嫌いをどう経営に織り込むか」について、どう織り込むかの解(方法論)はありません。著者は下記のようなことを言っています。
会社内での議論や意思決定では、好き嫌いについての話は意識的・無意識的に避けられる傾向がある。好き嫌いはあくまでも個人の主観だ。会社内での何らかの判断が必要となったとき、好き嫌いで決めてしまえば、意思決定の組織的な正当性が確保しにくい。客観的な「良し悪し」が前面に出てくるという成り行きになる。(中略)それだけでは他社との差別化を可能にするような面白みのある戦略にはならない。(中略)「こっちのほうが面白そう」「そういうことは嫌いだからやりたくない」という理由で物事が判断されてもいいはずだ。
確かにこれは実感値があり、実際にそういう意思決定の場面も日常の事業運営で行われますが、これをどうやって組織的な力にするかが課題かもしれません。

また、「商売は自由意志」という点ですが、ビジネスの根本原則は「自由意志」であり、誰からも頼まれていないし、誰からも強制されていない。しかし、よく経営者から聞かれるのは「~せざるを得ない」という言葉だとか。これを言った瞬間に、「商売は自由意志」という原則に照らすと、経営の自己否定となります。商売は「せざるを得ない」ではなく「何をしたいか」、戦略は「こうなるだろう」ではなく「こうしよう」という意志の表明だと著者は言います。

これも非常に耳が痛い話。事業の成長を考えるとグローバル化せざるを得ない、ビジネスモデルを転換せざるを得ない、果てには新規事業を考えざるを得ない、といったことさえ社内で話されることがあるのではないでしょうか。

コンサルティング会社マッキンゼーの中興の祖であるマービン・バウワーも、名著『マッキンゼー 経営の本質』で次のように言っています。
「経営の意思」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。システムとして経営に取り組み手法は既に盛んだが、多くの企業で効果的に実行されているとは言い難い。「経営の意思」が発揮されてこそ、経営システムは価値あるものになる。
これ、1966年の著です。昔からこの点は普遍的な問題のよう。

上述のような点に、分析的なモノの見方だけでは捉えきれない経営の肝のようなものを感じます。もちろん客観的にファクトで物事を捉えることはベースとして重要であることは言わずもがなですが、「良し悪し」や「せざるを得ない」で物事を分析的にデジタルに判断をすることは、ある意味で(一定のスキルの人材を揃えれば)誰でもできて楽な作業かもしれません。一歩先を行く突き抜けた経営や事業運営をするには、すごく直観的(センス?)ではありますが、どうやって綜合的なモノの見方を組織として経営に取り込むことができるかが、ポイントになるのではないか。すごくチャレンジングだし面白いテーマだと思います。

2013年7月24日水曜日

誤診 -仮説という名の認知バイアス-

突然ですが、皆さんは誤診をされた経験はありますか?死亡するまで発覚しない無自覚なものが大半だと思いますが、死後に解剖を行った結果、1割以上が生前に行った診断は誤診であったという結果を発表した論文もある(3割以上という論文も。出自Wiki)そうです。これが多いと思うか少ないと思うかは人それぞれの感覚ですが、細かな診断違いやちゃんとした医師にかかれば原因がもっと早くにわかったのにという広義なものを含めると、もっと割合は高いのではないのかというのが実感です。

最近読んだ『医者は現場でどう考えるか』という書籍によると、そういった誤診等、医師のおかす診療上のエラーの大半は、技術や知識が原因ではなく、認知の問題が大きいそうです。つまり、知識がなかったからとか、診断する技術がなかったからとかではなく、事象の捉え方、解釈の仕方を誤るケースが大半ということです。著者いわく、誤診は医師の「思考が見える窓」だとか。

では、診療においては、どのようにしてその誤った認知や解釈が生まれるのか。

診療は大体、問診(今日はどうなさいましたか?から始まる一連の問答)の情報から始まります。検査をするもしないも、何の検査をするかも、どのような症状や傾向があるのかを患者から引き出し、どのような診断の仮説を作るのかも、全ては医師の患者への質問から始まります。

著者は、「医師の質問の仕方が患者の答えを構築する」と言っています。つまり、認知や解釈の問題がある、誤診がある場合、医師の持つ知識が正しくなく患者の答えに対する解釈が間違っているということよりも、そもそも間違った答えを引き出すような聞き方をしているということとです。一般的に、「質問すること」は相手の認知を試す(答える側がどう答えるかを試す)ことのように捉えられますが、そうではなく質問者自身の認知が試される行為であると解釈できます。

本書で著者が問題にしているのは、質問をする時点で一定のフレームに回答をはめてしまう認知バイアスです。患者に何かの症状を聞く、あるいは診断のヒントになるような日常の行動を聞く際に、「Xですか?Yですか?それともZですか?」と選択肢を規定した段階で、(それが正しければ良いですが)一定の認知バイアスがかかっており、本来であればもっと患者本位に立ち、ゼロベースであらゆる可能性を考慮したオープン質問を展開すべきと指摘します。(当然実務上、数分で患者を「処理」しないといけない実務上、全てのケースでゼロベースで診療をするというのは現実的ではないとは思います)

著者は下記のような認知バイアスを例に挙げて説明をしています。

・有用性/アベイラビリティのエラー:過去の類似した事例に照らして判断する傾向
・遂行志向バイアス:何もしないより何かしらアクションを取るたがる傾向(根拠が拾いきれていなくても何かしらの診断をつける等)
・探求の達成感:一度何かを発見すると、正しい診断を行うための探求をそこでやめてしまう傾向
・アンカリング:判断する際に、特定の情報をあまりにも重視する傾向

これを読んでいて思ったのは、仮説思考型問題解決の落とし穴についてです。仮説を持つということと認知バイアスに陥ることは紙一重で、仮説を持ちながらも予断なく情報を抽出し受け止めること、仮説というフレームにしっくりはまり込まない情報が出てきた時にそれを無視しないこと、仮説に対しては必ず検証がセットであることの重要性について認識を新たにしました。

翻って、ビジネスの現場でも、日々「診断」に近い作業をすることは多いと思います。例えば、営業の場での顧客とのやり取りを通してのビジネス判断、社内での議論におけるアイデアの選別、面接での候補者の選考、などなど。仮説を持って場に臨むことは重要ですが、認知バイアスのかかった状態で判断をしていないか、自身の質問の仕方が相手の返答や議論の方向性を誤って構築していないか、再度振り返ってみないといけないなと。誤診をしないように。

2013年7月22日月曜日

提案を引き出す力 -提案を受ける側が心がけたいこと-

ビジネスは誰かが誰かに提案(営業)しなければ始まりません。プロジェクトにしろ何かのサービス/ソリューション提供にしろ、会社間でのビジネスにおいて、「提案」のフェーズは非常に重要です。今回は少し「提案」について考えてみたいと思います。

■提案の位置づけ
提案について、単に取り引きが成立すればよいという視点は近視眼的です。実行と成果を見据えた時、問題の設定、ゴール/スコープの合意、内容の質を決めるアイデア、お互いの信頼関係、協働チームとしての役割分担など、実際に案件が走り始めてからの成否を決める要素を概ね方向づけるのが、提案というフェーズです。

例えば、コンサルティングファームのクライアントに対する提案活動は、単価(当然能力も?)の一番高いパートナーやシニアマネジャークラスが担うことが多く、提案の重みがわかります。提案に際して、お金をかけてリサーチをかけたり知見のある人を引っ張ってきたり、相応のパワーをかけるものでして、提案書そのものに対価をもらってもよいレベルなのです。なぜなら、提案において行われる「問題の設定」が、プロジェクトを進めるに当たって本来は一番重要な作業なのですから。マナーの悪い企業ともなると、コンペを装ってトップレベルのファームに提案書を出させて、その内容でもって少し安く請けてくれる(ファームからスピンアウトした人がやってたりする)ブティックファームに提案書に沿ったプロジェクトを投げるというケースもあると聞きます。

とにかく、コンサルティングに限らず、モノを右から左に流すだけならともかく、今時、取りあえずぼんやりと何かやることだけ決まっていてあとは始まってから決めましょうなんてことは滅多になく、提案の段階で相当に中身にまで踏み込んだ議論がなされることが多いと思います。提案の質がその後を決める、言い換えると、ここで何も決まらなかったり、変な方向に決まったりした場合、大きく後に尾を引くことになります。

■提案を「受ける側」も提案の質を左右する
さて、ビジネスにおける提案には、「する側」と「受ける側」があります。提案の質を決めるのは、当然提案する側の力量に大きく左右されることは言うまでもないですが、一方で、提案を受ける側の「提案を引き出す力」というのが、提案の質を高めるためには重要なのではないかと最近感じています。

上述したように、プロジェクトが決まり実行に移された際に肝となる内容が方向づけられる以上、提案を受ける側、つまりその実行によって直接的に自らのビジネスにインパクトを受ける側が、提案内容に積極的に関与していくことが求められるのではないかと思います。(社内の意思決定者に向けた)提案を一緒に作る力、と言い換えてもいいかもしれません。

■提案を引き出す力
以下に、「提案を引き出す力」として、提案を受ける側が心がけたいことを書き出してみたいと思います。私は最近はもっぱら、提案を「する側」の立場なのですが、身近なケースで、この人・企業は提案を引き出すの上手だなー、こういう人・企業とはいいディスカッションできているなー、というのをイメージして書いています。

・事前に論点を(必要なら宿題を)出しておく
何をやるかは決まっていて、RFP(Request for Proposal)を投げてあとはベンダーを決めるだけというケースは別として、プロジェクトの必要性を議論するとこから始まるようなケースで、提案を受ける側って事前の準備を驚くほどしていないです。個人的統計から言うと、事前に主体的に論点出しなどをして提案する側に宿題を出す率10%未満。

もちろん提案内容について準備をするのは提案をする側なのですが、議論の出発点のレベル感を上げるために、何を聞きたいか、議論したいか、何を判断のために準備しておいてほしいか、事前に伝えておくべきです。これら、提案する側が仮説を持って臨む力量があれば良いですが、「まずはざっくばらんに・・・」とか言いながら提案する側が何も準備していないという情けないケースもあり、性善説はそんなに通用しないと思った方がいいのではないかと思っています。

・アジェンダを明確にする
一つ目に関係しますが、提案当日に何を議論し、何をクリアにすべきかをその場で最初に意識合わせをしておく必要があります。そうでないと、一方的で的外れな提案という名の手前味噌な紹介に終始されたり、途中で話が逸れてそのまま本来とは別の話を惰性で聞いて終わりということになりかねません。

これも基本的に提案する側が用意するものなのですが、これも驚くほどアジェンダを用意していない提案者というのは多い印象がありますので、別に紙でなくてもいいので最初に主体的にアジェンダは確認するべきだと思います。「今日私たちがお聞きして議論したいことはこの3つです」みたいに最初に提示してしまうのもありかもしれません。それにちゃんと答える展開を組み立てられるかで提案者の力量を測ることも可能です。

・ビジネスのゴール/課題を明確に話す
何を成すために、何を解くために提案を受けているかをはっきりと提示すべきです。提案を聞いていて、わかっているぞ感を出すためか、いきなりテクニカルな話とか瑣末な確認を入れてくる人がいますが、そんなことは後で良くて、提案者が話す内容はあくまでも手段であり、その前に目的がどこにあるのか、その目的を達成するためにどのような提案をできるのかを、しっかりとインプットしておくことが必要だと思います。これをクリアに提示できないのであれば、提案を受けるべき段階ではないのかもしれません。

相手のビジネスや課題を理解しないままに提案をしてきて、ある日あまりに初歩的なことを理解していないことに気付いて愕然とするケースというのがあるものです。意地悪ですが「弊社のビジネスのゴール、あるいは現状の課題についてどのような仮説をベースに今回のご提案を位置づけられていますか?」というような質問をしてしまっても良いかもしれません。

・場をコントロールしすぎない
ここまでのポイントと矛盾するように思えるかもしれませんが、提案を単なる説明会ではなく、内容を高める議論をする場と捉えるのであれば、目的やアジェンダは明確に定めながらも、自由に意見を出し合えて提案の既存アイデア以上の発想の広がりが生まれるような議論が可能な場づくりが必要かと思います。上下関係を意識させるためか何なのか、単に想定外を嫌っているのか、司会進行から、説明の進め方への指示、さらには質疑応答の指名まで、自身の筋書きに沿った進行をしようと場を過剰にコントロールしようとする人がいます。そういう場では提案書の内容以上の議論の発展は生まれずらいですし、今ある提案についての粗探しで議論が逆にシュリンクするという実感があります。

・真摯に聞き、真摯に応える
知ったかぶりをしない。自身の知識をひけらかすことを目的に質問しない(内容を理解し、議論の質を高めるための質問をする)。そもそもイコールパートナーとして話をちゃんと聞く。
質問には答えられる範囲ではっきり答える(駆け引きのつもりなのか、提案の質に関わる内容を変にごにょごにょ曖昧な返答をする人多いです)。わからないなら調べて答えるようにする(多分ほにゃららな感じなど適当に返さない)。答えられないなら答えられないと言う。
全て対等に同じ目的を持って議論を進める前提条件です。なんというか、提案とか抜きにして、マナーというか姿勢の問題かもしれないですが。

・期待を語る
提案者に対して、どのような強みに注目していて、何を期待しているのかを語ることも重要だと思います。これには二つの効用があって、一つは、提案する側が、何を軸に据えて提案することが望ましいのか、競合があるとしたら何を差別化のポイントとして打ち出すことが良いのかを考えるヒントになる点です。もう一つは動機づけ効果です。そんなものビジネスを取りに来ているんだからなんでこっちが動機づける必要があるんだという考えもあるかと思いますが、結果として自身のビジネスに跳ね返ってくる内容で、大したコストもかからずに提案の質が上がるのであれば、やっても損はないのではないでしょうか。社内で部下に何か提案をしてもらう時には皆さん普通にやっていることだと思いますが、それを社外に対してもやるだけです。

・アイデアを積極的に出す
アイデアは提案する側が出すものとは限りません。当然、ビジネスのインサイダーたる受ける側の方が、よりビジネスにおけるニーズや課題解決のポイントをわかっており、このようなアイデアややり方であれば目的を実現できるのではないかという仮説は提案者以上にリアリスティックに持てるのではないかと思います。

あまり提案者のケイパビリティやイメージに縛られず、「例えばこういったことってできるんでしょうか?」という問いかけをすることは非常に有意義だと思います。そこでダメな提案者なら「うちはこれこれをならできますが、それはちょっと・・・」と紋切り型の対応をするでしょうが、目的に対してコミットして提案をしようとしている提案者なら、手段としてどのような方法(他社と組むとか)があるのか考えたり、あるいはそのアイデアに着想を得て「少し違いますがこういったことなら・・・」と提案をしてくるでしょう。

・ネクストステップを明確にする(そして、やる)
これもまた提案する側がしっかりとグリップすればよい話の一つかもしれませんが、「じゃあそういうことで(どういうことで?)」「また何かあったら教えてください」「適宜情報交換させてもらえれば」みたいな締りのない終わり方をしないことです。可能性がないならお互いの時間の無駄ですからはっきりと次はないことを伝え、条件付きで可能性があるのならそれを確認するための宿題を決め、具体的に前に進めるのであればもう一度合意した現時点での方向性を確認し進め方とタイムラインを決めるべきです。

そして、決めたら、やる。提案をする側が宿題をしないのは問題外ですが、提案を受ける側が宿題をちゃんとやらずに次の打ち合わせに臨み、「いやー実はまだ確認が取れていませんで・・・」と全く前回と同じ議論で堂々巡りをするというケースというのはよくある話です。

・不必要に大勢で参加しない
これだけ少しレベル感違う気もしますが。特に内資の大企業に多いですが、提案となるとやたらと関係者を集めて大人数で聞きに来る企業があります。そのメンタリティを考えてみると、実行まで見据えて関係者を巻き込んでおこうとしているのか、はたまた意思決定の責任を分散すること(お前も聞いていたよな効果)を狙っているのか、よくわかりませんが、そういう場というのは、非常に静か(別に注意を傾けて聞いているということではなく関心が薄いだけ)で、質疑応答でもあまり質問が出ず、出たと思えば本質に関係のない自身の立場を代表した質問で、もちろん一つの目的に向けて自由に発想を広げてアイデアを出したり議論をしたりということなど期待ができないというのが経験上の印象です。情報共有だけなら、後で個別にやりたいところです。

【番外編】
・遅刻しない、敬意を持った言葉づかいをする(などの最低限のマナー)
くだらないですが、意外と重要かも。こういう最低限のことできない人(意識的/無意識的に業者扱いしてしまう人)って意外と多くて、そういう対応を見せていると、相手も次第にルーズになります。提案する側の準備も(半分無自覚に、半分意図的に)おろそかになり、提案の質もどんどん下がります。


こう書いてみると、ビジネス上あまりに当たり前なことで普通やってるだろうという内容が多いですが、自身が「お客様」の場合、意外とこの当たり前がしっかりとできていないことって多いのではないでしょうか。文中にも書きました通り、提案をする側がパーフェクトに提案と議論を組み立てられる提案者なら気にしなくてもいい内容も多いのですが。実際はそうでもないことの方が多いですから。。

2013年7月17日水曜日

時間を売るビジネスの辿る道 -労働集約的産業化しつつあるSIやコンサルティングを例に-

突然ですが、弁護士ドットコムというサイトをご存知でしょうか。いわゆるプロフェッショナル業の最たるものである弁護士がサイトで検索できて料金表がネットで公開されている、そんな時代になっているのですね。当然、複雑な事案や(一定規模以上の)企業法務などはまだまだ取り扱えるファーム・弁護士は限られているでしょうし、その(希少)価値は薄れていないとは思いますが、大部分の一般的事案についての弁護士業務は相当コモディティ化が進んできている印象を受けました。

一般的に、誰でもできる(誰でも価値の変わらない)仕事や代わりの仕組み(機械やシステムなど)に置き換えることのできる仕事、いわゆるコモディティ化しつつある仕事というものは、どんどん値引きの対象となったり、代替事業者(国)の脅威にさらされることになります。さすがに弁護士業務はかなりローカル性の強い商売ですので、国内の小さな案件ベースに国外の事業者が入ってくることは当面なさそうですが、国内における需給のバランスや業務内容の定型化などから横比較圧力、値下げ圧力は強まると思います。

■ペイ・フォー・タイム(pay for time)への値下げ圧力
プロフェッショナル業のコモディティ化。SI(システム・インテグレーション)やコンサルティング、会計・監査などが同じプロフェッショナル業の例として想起されますが、稼働した時間に課金する、ペイ・フォー・タイム(pay for time)が基本的な価格体系であることが共通点として挙げられます。

私の周りを見ている中での印象では、ペイ・フォー・タイムで提供されている仕事やサービス、つまり時間単価/人工(にんく)を出して時間に課金している仕事やサービスというものは、大体が値下げ圧力の渦に巻き込まれているように感じます。SIにおけるプログラミングやテストといった業務などは典型ですが、最近はコンサル業界においても、話を聞く限り一部では値下げ圧力がかかっているようです。私は弁護士業務には詳しくないのでよくわからないのですが、価格が廉価になってきているという状況はあるのでしょうか。

私は、ペイ・フォー・タイムな仕事やサービスの提供をするということは、値下げ(切り)を許容したということとほぼ同義と捉えています(当然当事者はそのようなつもりは毛頭ないと思いますが)。上記のような業界では、クライアントへ出す見積もりは大体が時間単価・人工(にんく)を積み上げる方式。これってクライアントからすれば非常に勉強してもらいやすい価格体系でして、「このモジュールいらないから削って」「こんなシニアな人つけなくていいから抑えて」「ここは社内でやります」「XXさん高いよね、外してもらっていいですよ」「よそでは同じこといくらでやるって言ってましたよ」というような具合です。

■ペイ・フォー・タイムは知的生産の工業化
このペイ・フォー・タイムのモデルにおいては、プロジェクトがフェーズやタスクに細分化され、それぞれに各クラス/職種が何人日必要かというシンプルな論理で値付けがされます。価格は個人ではなく、クラス(職位)や職種に応じて付くものであり、均質なアウトプットが前提です。あまり個は重要ではない匿名な世界です。職務の細分化による知的生産へのテイラー主義の導入、知的生産の工業化、と言えるのかもしれません。

製造業(の製造ライン)をイメージしてもらえればわかりやすいと思うのですが、工業における、型を作り高いレベルで均質を保ち、生産性を上げ、コスト効率を1円単位で高める動きが知的生産にも及んでいるということだと思います。現にSI事業のオフショア/ニアショア化の流れは製造業の過去の流れを想起させます。

■かつてはペイ・フォー・バリュー(pay for value)だった?
上述したようなSIerやコンサルティング会社も、まだそういった事業者が提供する情報やノウハウ、人材に希少価値や新規性が高かった時代、価格設定は内部的に見るとコスト積み上げ方式であったかもしれませんが、クライアント企業から見ればバリューや場合によっては個々人に値段が付いていたのかもしれません。下記のようなアウトカムに対して値付けがされる、あるいはその人個人に値付けがされる世界です。

・ペイ・フォー・パフォーマンス(pay for performance)
⇒プロジェクトの結果にコミットし、誰が何時間働いたということではなく成果に応じて報酬を受け取る

・ペイ・フォー・バリュー(pay for value)
⇒他では提供のできない希少価値や模倣困難な価値を提供することで、(場合によっては言い値で)価値に対して値付けをする

・ペイ・フォー・パーソン(pay for person)
⇒グレーヘアコンサルタントや人気キャバクラ嬢のごとくバイネームでの指名買いを獲得する(同じ時間課金でも指名であることにペイ・フォー・タイムとの違いがある)

今でも、特にコンサルタントはとにかく密度高く長時間働く労働力としての価値は非常に高いですし、(事業の)時間を買うという観点で価値がついているケースもあるとは思いますが、情報の非対称性が解消され、知見がクライアント企業に取り込まれた(外部企業の提供する知見の価値が相対的に下がった)現在、提供する役務はある程度コモディティ化していると言えます。「知的」労働集約的産業と言い換えることができます。

そうすると視点が価値ではなくコストに向くのは必然でして、この流れがペイ・フォー・タイムなコスト構造を顕在化させてきたのかもしれません。こうなってきますと、価格での競争ルールが働き始め、そのことがコモディティ化を加速させるという、負のグルグルが回り始めます。

■目先の安定のためにペイ・フォー・タイムを選択しない
先のパフォーマンス/バリュー/パーソンに対して対価をもらうモデルは、個人的には下に行けば行くほど難易度が上がり、一つ上の実績が次のモデルを実現する上で必要になる要素である気がするのですが、いずれにせよこのような値付けを行う(売り方をする)ことは簡単なことではありません。反対に、ペイ・フォー・タイムなビジネスは、価格の根拠の説明がしやすいので、売りやすい(営業しやすい)という特性があります。乱暴なことを言うと、一度価格テーブルさえ決まってしまえば、あとはオペレーティブに回せるので考えなくてもいいのです。企業やプロジェクトの規模が大きくなった場合の、コスト管理のしやすさもピカイチです。

ただ、ビジネスの持続可能性、コモディティ化のリスクを考えると、理想としては上記の3つのモデルいずれかを志向する必要があるように思います。短期的な視点に立つと、ペイ・フォー・タイムな仕事は安定していてむしろリスクが少ないという見方もできるため、そちらに流される(自然な)圧力は組織にはありがちだと考えていまして、それに抗うことを常に意識する必要があります。

ペイ・フォー・タイムを個人の評価に置き換えてみてもわかりやすいです。つまり、時間いくらの世界で評価されるような人材であることをどのように考えるのか。成果で評価されないことは確かに一時を考えると楽なのですが、成果で測られないことでホッと胸をなで下ろしてはいけないと思います。確かに単年で成果が出ずクビを切られることはありませんが、それは安定を意味するのではなく、代替可能性(仕事の外出し、あるいは自身の非正社員化)や価格(報酬)下落のリスクを意味すると考えた方が良いと個人的には感じています。

ビジネスとして時間を売ること、個人として時間で評価されること、いずれも短期視点では楽なのですが、時間を売るということが必ず辿る道があるような気がしたので書いてみました。

2013年7月6日土曜日

養殖人材 -コンサル出身者が事業会社で働くということ-

野菜や果物は旬がおいしいし、魚は天然ものがおいしい。でも、ハウス栽培や養殖は年中好きなものが食べられるし、質は一定だし、そこに価値がある。季節はずれなミカンを食べながら、人材にももしかしたらそういうことが言えることもあるのかもとツラツラと考えていました。

■養殖人材の価値
何かというと、最近採用面接をしていたり前職での経験からあくまで個人的に思うことなのですが、事業会社から見てコンサル出身の人材に養殖的なものを感じるのです。コンサル(出身)人材は、養殖とかハウス栽培と似ていて、一定のスキルセットを均質に安定供給してくれて、それでいて少し高い(給与水準が)。言語も一緒なので同僚になったDay1から話が早いですし、仕事をする上での呼吸もなんとなく合います。
(これは、私がコンサル出身という前提に立った話ではありますので一般化はできないかもしれませんが、コンサル出身者を多く採用する楽天やユニクロといった会社では部署の周りほとんどがコンサル出身者で大変仕事はやりやすい、でもこれコンサルプロジェクトと何が違うのという状況が多くあると聞きます)

ただ一方で、養殖ものやハウス栽培のメタファーで言うと、飛び抜けてフレッシュだったり、何これめちゃくちゃうまい!となったり、滋味あふれる感じもない。事業会社で必要とされるエッジの立ち方というのはコンサルタントとしてのそれとは異なるというのが私見です。
(念のため断わっておきますが、だからと言ってダメということではなく、(一部)事業会社のコンサル人材ニーズは確実にありますし増えているのではないでしょうか)

■養殖のコモディティ化
確かにコンサルタントとして、あるいは頭の切れという意味でめちゃくちゃ尖っていて、キレキレな人がいることは確かです。ただ、そのいわゆるコンサルタントのスキルセットというものも徐々に(部分的に)一般化してきているところがあって、スキルセットのコモディティ化が少しずつジワジワと進んでいるように思います。

ハウス栽培や養殖で考えると、最初は市場ニーズのあるものを旬以外にあるいは安定的に供給しますし、供給体制も限定的なので価値は非常に高いのですが、その技術や方法さえ確立されれば、安定供給そのこと自体の相対的価値は低下し、技術や条件さえ揃えば誰が作っても基本同じになり、程度の差はあれその収穫物はコモディティ化していくと思うのです。

上で、ハウス栽培や養殖は少し高いと言いましたが、昨今は必ずしもそうではないものも多いように思います。同じように、コンサル人材に対する事業会社の目も、どうしてそこまで社内の人間と比較して相対的に飛びぬけて高いスキルセットでもないのに、そんなに高いサラリーを払う必要があるのか、という議論が今後起ってこないとも言えないのかなと。私の知る限りまだそのような話は聞きませんし、コンサル出身者に対する一部事業会社のニーズは未だに活況ではありますが。

■いけすの外に出る耐性
養殖ものやハウス栽培は、その生育環境は非常に整えられていて、外的な要因や変化になるべくさらされないように育てられているところがあります。逆に言うと、外的な要因や変化に弱い。詳しく知らないので間違っているかもしれませんが、いけすの外に養殖マグロが放り出されたり、ハウスのイチゴをそのまま外に植えた場合、その環境に適応はできないのではないでしょうか。

また、養殖やハウス栽培は、基本的には一種(マグロならマグロ、イチゴならイチゴ)を一つの囲いの中で育てるものだと思います。純血培養と言いますか、多様性とは無縁の世界です。

上記をコンサル人材に当てはめるのは多少乱暴かもしれませんが、実態として、事業会社に来てみたはいいけれど、環境や仕事の進め方に馴染めなかったり、事業会社人として求められるパフォーマンスを発揮できなかったり、異なる価値観を受け止められなかったり、理由は様々あれど割とすぐにギブアップしてしまい、また別の会社に行ったり、コンサル会社に戻ったりという人はよくいます。
(もちろん当人には当人の主張する理由がありますし、一概に本人の耐性が低いということだけではないとは思います)

■多様性という組織の方向性
今後(というか今?)の組織におけるキーワードは「多様性」かと思います。最近DeNA南場さんの講演が話題になっていましたが(この全文書き起こし、かなり拡散していましたがお勧め)、「人は多様である方がいい。チームは多様なメンバーから組成されていた方がうんと強い」「本当に単一のまったく似たようなメンバーの組織はまとめやすいんだけれども、変化に弱いし、改革に弱い。」といったことを言われています。

当たり前なのですが、事業会社生え抜きで経験を積んでいることが偉いわけでも、コンサル出身である種特殊なスキルを身につけてきたことがすごいわけでもなく、それはただ異質なだけで、良し悪しではないということです。(ビジネス)人種が違うから無理と決めつけるでもなく、自分のキャラクターの角を丸くするでもなく、その多様な価値観や人を受け止め、その中で自身をポジショニングするということが求められているのだと思います。
(上述のように、スキルセットのコモディティ化は多少はあると思われるため、いずれその部分での異質感は多少薄れてくるかもしれませんが、コンサルで培えるものはそれだけではないと考えています)

逆説的ですが、多様性が求められている流れは、コンサル出身者には追い風だと思っています。ともに働く仲間の多様性を受け入れることさえできれば、それこそコンサルティングワークの中でまさに多様な組織や人を見ている訳ですし、自身も事業会社から見ればある種異質なマイノリティな訳ですし、その多様性の中でうまく自身をポジショニングし、その多様なチームをマネジすることに適性があるのではないかと、個人的にはプラスに思っています。

いけすの外に出ても変化に対応して進化できる養殖ものって結構強いのではないでしょうか。

2013年7月3日水曜日

計画された偶発性(Planned Happenstance) -創発的なキャリアのススメ-

人生なんて計画通りにいかない。でも、計画から逸れた脇道で思わぬ発見や出会いがあり、それがまた新たな道になる。

人生やキャリアについて、私はこのように最近特に良く感じています。後付けではきれいな筋道立ったストーリーにしてしまうのですが、キャリア一つとっても、あの時あのプロジェクトやってなければ今のこの道はなかったなとか、あの時あの人に会ってなければ今の会社にいること(そもそも自分が働く場として興味を持つことすら)なかったなとか、皆さんありませんか。これは別に転職を幾つか経験している人だけでなく、同じ組織の中での異動という経験も含めて言えることではないかと思います。

実際、あとでご紹介する記事で紹介されている米国におけるある調査結果では、18歳の時に考えていた職業に就いている人は約2%という数字もあるそうです。ものごとは計画通りにいかないし、それでいい。

■「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)
この、感覚としてはすごく実感値のあるキャリアのあり方を理論化したのが、「計画された偶発性理論」(Planned Happenstance Theory)です。この理論の提唱者は、スタンフォード大学教授のJ.D.クランボルツ氏。「計画」と「偶発性」という本来相反する言葉が一緒になっているところが味噌でして、自らが計画して起こした行動から、自分を成功へと導く偶然のチャンスをつかみ、それをその後の人生に生かそうとするキャリアづくりが、「計画された偶発性理論」。最初にこの理論を目にした時には、やっぱりそうだよなと我が意を得た感覚になりました。と同時にこれはサイエンスとしては厳しいのではと思ったり。

これ、別に偶然をただ座して待つとか棚ボタ狙いとかそういうことではなく、積極的に意図して偶発的な機会を捉えるための種まきを絶えずするということです。「計画された偶発性」(Planned Happenstance)なのですが、イメージとしては「意図された偶発性」(Intended Happenstance)といった方が近いような。

この理論では、偶然の出会いや出来事を生かすキャリアづくりの基本スタンスとしての「オープンマインド」を挙げており、その上で、次の5つのポイント「好奇心」「持続性」「楽観性」「柔軟性」「リスク・テイキング」が重要であると言われています。こちらの記事で概要はわかるのではないかと思います。

■創発的なキャリア
このキャリア理論、言い換えると「動的」(Dymamic)なキャリア、「創発的」(Emergemnt)なキャリアです。個人的にしっくりくると同時に既視感があったのですが、戦略論で言うと、ミンツバーグの創発的戦略に近いですね。個人的に一番好きな戦略論です。

少し話が逸れますが、ミンツバーグの創発的戦略とは、いわゆるポーターの計画的・分析的戦略論(5 Forces等)へのアンチテーゼ(ただし、計画を否定はしていない)であり、ポーターが戦略立案に対して普遍性の高いモデル作りを前提に議論を進めるのに対して、そのような分析的なモデル”のみ”の非現実性や実効性の低さを指摘し、戦略の「創発」という考え方を考慮すべきであると主張するものです。

創発(Emergence)という言葉についてWikiで引くと下記のようにあります。分析とは往々にして要素分解をしその独立性を前提にして進むことが多いですが、そんなに世の中パキッと分解できるものばかりではなく、個々の要素が実際は複雑に絡み合い、その中から当初は予測し得なかった事象が起こることもあり、その総合として全体としての事象は成り立っているということかと。
部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れることである。局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
ミンツバーグの立場は、つまり、戦略というものは理路整然と分析され計画されて後は実行すればいいというものではなく、日行業務の中で知らず知らずのうちに生まれてきたり、意図があるとしても試行錯誤の中で次第に形成されていくことが多いものだという認識かと思います。ケースとしてはホンダ(オートバイ)の米国市場への進出が有名ですので、興味のある方はググっていただければ色々と出てくると思います。

また、計画と創発にはそれぞれフィットする環境というものがあります。大きく大別すると、計画がフィットする環境は、前もって予見し意図的に追求できる機会。創発がフィットする環境は、予見可能性が低い世の中。これはキャリアにも言えて、キャリアにおいても偶発性に重みを置く重要性が高まってきているということは、この計画と創発の対比のメタファーで考えると理解しやすいと思います。

■とは言え、計画も重要
理論名にも「計画された」とあるように、偶発性をただ漫然と待つのではなく、計画(というより意図や準備?)をしているかどうかが重要と言えます。対比で出したミンツバーグの理論においても、上述の通り、計画を否定している訳ではなく、計画(統制)と創発(学習)のバランスが重要だと述べられています。

ただ周りの環境に合わせたり会社や上司に言われる通りに道を進めれば、気付けば全く軸のないキャリアになっている可能性もありますし、自ら動くにしても意図や準備なくただジョブホッピングするということも偶発的な機会を活かしているというよりは目の前にある機会に正面から向き合えずそこから逃げ続けているというケースが多いように思います。

以前、ライフネット生命出口会長(当時、社長)のお話を聞く機会がありましたが、その中で起業に至ったのは、偶然に持ちこまれた話との出会いがあり直観で決めたというようなことをお話をされていました。ただ、その直観は勉強で培われるものだとの但し書き付きで。当然その出会いもそれまでの人脈やご経験の蓄積の上にあるのかと思います。この記事では、偶然自分に吹いてきた風を上手に掴んで凧を揚げることに成功したとなっていますが、風が吹いた時に凧を持って走る準備をできているかどうかは重要なことです。私の卑近なキャリア感と対比するのはおこがましい例ですが、それほどの方になっても、やはり準備が機会を捉えるためには必要だと考えておられるのだと感じました。

また、少し文脈はキャリアとは異なりますが、デザイナー奥山氏の下記講演にある「いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロで、来ないかもしれないからと言って準備をしないのがアマチュア」という部分は、意味としては近いかと思います。要は準備をしているからこそ捉えられる機会ということであり、準備をしていない人にはその機会は捉えられませんし、それ以上に機会が目の前にあることに気付かなかったり、気付いたとしてもキャッチアップできないあるいは逃げるしかないということになりえます。

いつ来るか分からない15分のために常に準備をしているのがプロ、デザイナー奥山清行による「ムーンショット」デザイン幸福論

■創発的なキャリアを歩み続けるには
準備せずにただ偶然に身を任せることの危うさは上述した通りですが、もっと危ういのは、計画されたレールに乗るだけで、偶発性に目を向けられず変化に対応できなくなることかと思います。特に、この予見可能性が低い世の中においては。今、グローバル化、人工知能などのマシーンによる代替など、キャリアを左右するさまざまな外的要因が増えてきています。これは、最近流行りの働き方のシフトについての論述でよく見かけるものです。

そういう意味では、私の関心は、どうやって創発的なキャリアを職業人生の最後まで歩み続けることができるのか、計画された偶発性を活かし続けられるのか、です。今、仮に創発的なキャリアを歩めている人でも、創発的なキャリアをとれなくなることは多いと思うからです。それは様々なライフイベント(結婚、子供、ローン・・・)が起因するのかもしれませんし、専門性や地位を築くことでできる考え方の固定化かもしれません。これをどうやって打破するのか。

ちょっとまとまりありませんが、最近の関心事をつらつらと。

2013年6月26日水曜日

動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-

タイトルが全てではあるのですが、「内発的動機づけ」によって動機づけられた人の動機は、「内発的動機」なのかという疑問をここ数日持っています。少し言葉遊び的ではあるのですが、それって内発的なのか、という疑問です。

ここで言う内発的動機とは、外発的動機と言われるアメとムチ的な義務や強制、その見返りとしての安定や金銭的報酬といった動機付けに対して、本人の感じるやりがいや欲求、好奇心といったものをベースに賞罰に依存しない自発的な行動を促す動機づけを意味しています。専門ではないので厳密な定義では少し違うかもしれませんが、一般的に言うところの内発的動機です。

そのような疑問を持ったきっかけは、たまたま読み進めていたリチャード・フロリダの『クリエイティブ資本論』にあった下記の一節です。
(前略)人々に内在する動機を頼みに非常に微妙な管理を行う。企業はアメとムチよりも、むしろ動機づけや説得を試みる。実のところ、私たちにもっと働けとそそのかしているのだ。そして、私たちはかなりそそのかされたいと望んでいる。(中略)私はこれを「ソフトコントロール」と呼んでいる。
非常に有効なソフトコントロールの一つに、やりがいがあげられる。(中略)これらの動機が機能するように、従業員自身に業務内容を定義させ、責任を重くし、かつて経験したこともないようなやりがいに直面させるのである。より開発の進んだ次の新製品、新しい締切、新しい競争相手が次々登場する。
いや、まさに「内発的動機づけ」とはこういうことなのですが、時代は、と言うよりも一定の知性や能力を持った人は一歩先に既に行っていて、上記のような認識を本人自身が持っていると思うのです。つまり、「ああ、この会社(あるいは上司)に私は内発的動機づけをされている」と悟られていて、動機づけする側の意図が完全に透けて見えている。そこから生まれる動機は内発的動機と呼べるのでしょうか。

もちろん、外発的動機のアメとムチが未だに機能している組織や社会、もしかすると一部特定職種などがあるように、内発的動機(もどき)に動機づけられる(フリをする)人や組織もあるとは思います。むしろ大半はそうでしょう。わかっていながら、ケースバイケースであえてその呼び水に乗ることもあると思います。

ただ、それはもはや金銭などのハードでないだけで、ソフトなアメによる報酬でしかないと感じます。つまり今あまねく組織でもてはやされている内発的動機付けによる動機も、もはや一つの外発的動機と言ってもいいのではないでしょうか。

ここまでの論理展開は組織に属する人の動機を前提にしています。組織に属する以上、全くの内発的動機など実はないという身も蓋もない話かもしれません。

内発的動機づけを超えた理論というのはあるのでしょうか。外発であれ内発であれ、そもそも「動機づけ」という時点で、そんなもの他人に委ねることなのかと思いますし、個人的には感覚に合わない。それは組織のあり方とか、働くことの意味とか、個人と組織の関係とか、そう言ったより上位概念での社会システムの進化が今求められているということなのかもしれません。

2013年6月20日木曜日

カンの限界を超える創造の方法論 -KJ法の生みの親:川喜田二郎『発想法』を読んで-

川喜田二郎というと、誰それ?という人も多いと思いますが、KJ法というと、あーなんか聞いたことある、整理学の手法か何かだっけ、という人が多いのではないでしょうか。

何を隠そう私自身がそんな感じで、ろくに原著やその背景にある考え方に当たることなどせず、インタビューやブレストで出てきたトピックをポストイットか何かに書き出して、それを意味合いの近いもので括っていくことで、断片的な情報が体系的に整理でき、それを組み合わせたり並べ替えたりすることで、「課題は大きく言うとこの3つです」的な整理ができたり、課題の連鎖的なものをストーリー化できたり、みたいなことが、KJ法に対するザックリとした理解でした。

このKJ法について記された書籍がありまして、それが『発想法』『続・発想法』です。ちなみに『発想法』は1967年発刊です。こんなに息の長い方法論だとは勉強不足だったのですが、今にも通用する内容が多く、普遍的なものだからなのか、それともこの分野に目立った発展がないのか、よくわかりません。少し話はそれますが、ブレインストーミング(ブレスト)についても書かれていて(発案は別の人)、これもなんと1950年頃に考案された手法だそうで、「人の意見を否定しない」「ばかげたことでも自由に意見を出す」「量を重視する」「他人のアイデアに便乗し発展させる」といったルールも当時からあったそうで、これもまんまだなと驚きました。

この書籍を知ったのは、とあるブログで、最近「デザイン思考」とか「人間中心のデザイン」とか言うけど、その方法論の背景にある考え方って川喜田二郎がKJ法でまとめた考え方とすごく近い、というような記述を見て、そんな考え方が背景にある方法論だったのかと興味を持ったのが改めてちゃんと読んでみようと思ったきっかけです。

方法論の詳細については、他にも色々と記事や文献があるようなので詳細はそちらにゆだねますが、有名ないわゆるKJ法の解説以外にも、下記の「W型問題解決モデル」というような科学やその他の各種問題解決に活用可能な手法もまとめられています。これなんかはまさに製品・サービスの対象となる人間の観察を起点にした「人間中心のデザイン」にものすごく近い印象。そもそもが川喜田氏自身も文化人類学者です。

川喜田氏は下図のA→D→E→Hの思考レベルに閉じた科学を「書斎化学」、D→E→F→G→Hの推論からスタートする実験観察を通じた科学を「実験科学」、A→B→C→Dの問題提起から予断を持たず現場での探索観察を通じて仮説を作り出す科学を「野外科学」と呼んでおり、実はKJ法というのはこの「野外科学」において探索観察で得られた情報を統合し仮説という発想にまとめ上げる手法なのです。



『発想法』の副題は「創造性開発のために」です。結びに下記のようにあるように、川喜田氏がまとめあげようとしたのは「整理の方法論」ではなく「創造の方法論」なのですね。その点は大いに誤解をされているように思います。(私だけ?)
この発想法は、分析の方法に特色があるのではなく、総合の方法である。はなればなれのものを結合して、新しい意味を創りだしてゆく方法論である。分析的な方法だけではわれわれの世界は不十分である。
さて、少し取りとめがなくなってきましたが、最後になぜ川喜田氏がこのような創造の方法論をまとめようと考えられたのかという背景にある考え方が面白かったので、そのエッセンスを抜き出しておきます。平たく言うと、日本人は創造を生み出す資質はベースとしてあるのに、変に小器用でそれに頼るものだから、その能力を超える難題になると途端に路頭に迷う。そこで元々ある資質をうまく生かしつつ体系的に事に当たれる方法論があるとすごく強いのではないか、というようなことかと思います。これはすごく実感値ありますね。
日本人は「理論信仰」と「実感信仰」の両面をもっているが、(中略)いざというい土壇場のところでは、理論はとらずに実感信仰をとるくせに、表面的にはいかにも理論を信じているように自分も思い込むし、ときにはそのようなジェスチュアもするのである。すなわち、最後は日常体験ないし「生活の知恵」のようなもののほうを信頼しているくせに、頭のテッペンでは、輸入した中国の古典的理論や西欧の理論などを信じている。この双方のあいだに関連がない。 
アメリカ人は、ものごとの一つ一つの概念を、鮮明な輪郭で取りだす傾向がある。(中略)概念をとりまいてはっきり限定を加える輪郭のないのが、日本人の世界らしい。 
アメリカ人は、おのれという個人主義のカラが固く、そのおのれを外へ征服的に押しつけることにのみ急になる欠点がありはしないか。つまり、自分の青写真にあわせて「外界」を料理しようという一面への偏りすぎが・・・。(中略)日本人は足もとの体験からなにかを「総合する」という個人的能力が、ある意味でアメリカ人よりもすぐれていると思う。 
日本人は体験を総合化するという直観力にすぐれているために、かえってその武器に初めから終わりまでぶらさがろうとする。(中略)いくら日本人が直観的総合力、状況判断の洞察力に優れているといっても、それは現実が比較的単純な場合にだけ可能であるにすぎない。現実が複雑になってきた場合には、直観だけで一挙に総合化することは、何びとといえども不可能なのである。それにもかかわらず、日本人は一次的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。
そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである。息の短い直観的総合力と、それに伴う息の短い創造性。それでものごとが処理できないと、たちまちにして模倣に転ずる。 
小さな直観的総合能力、小さなヒントのひらめきを、事実に密着しながら、大きなひらめきに組み立ててゆく方法を日本人はもっていない。それ以上に根気よく積み上げる道に対して、はじめから投げだしてかかっているように思われる。
川喜田氏の功績(上から目線。。)は、カンに頼ってきた暗黙知の世界を体系立てて方法論としたところにあるかと思います。真意が正確に理解され、最大限に活用されているかというとそうではない印象です。

ご参考までに、現代で言うと、私の中ではデザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏のアプローチが、なかなか形式知化しにくい領域で方法論をまとめておられるという意味ですごく近いなあと思っています。過去にまとめた記事を参考までに置いておきます。

イノベーション:7つの落とし穴 -整理ではなく創造のためのイノベーション・フレームワーク-

アイデア創出の処方箋「バイアス崩し」 -Ziba濱口秀司氏プレゼン@TEDxPortland-

2013年6月16日日曜日

当たり前過ぎることをできないと高い山には登れない -登山家であり起業家、山田淳氏の講演を聞いて-

久しぶりの投稿です。2013年初投稿が6月、しかも前回が昨年の8月。。誰に求められているものでもないですが、なんとも間が空きすぎました。特に再開をするキッカケのようなものがあった訳ではないのですが、少し考えるべきことも多くなり、その時の考えごとに直接関係がなくとも思考やインプットを整理していこうかなと思っているところです。

さて、先日、登山道具レンタルビジネスの起業家である山田淳氏の講演をお聞きし、少し意見交換させていただく機会がありました。氏の経歴ややられていることは、下記の記事がわかりやすいです。

新世代リーダー 山田 淳 登山ガイド 山の世界から見る新しい日本

特にその経歴(灘・東大→七大陸最高峰最年少登頂記録→マッキンゼー→起業)がとにかく目を引きますが、ご本人は親しみやすいキャラクターと軽妙なトークで人を惹きつける方で、氏の登山ガイドを受けた人は「山田さんファン」になり、「どの山に登りたいかより山田さんと登りたい」という状態になるそうです。「そこに山があるから」ではなく「山田さんと登れるから」という(笑)

講演では七大陸最高峰登頂の話を中心に、直近の起業も絡めたお話もお聞きできました。月並みすぎますが、(色々な比喩での)「山に登る」ということに対して、山田氏がどのようにアプローチされているのか、私の得たことを整理します。

・目的を忘れない
七大陸最高峰最難関のエベレストの登頂ともなると、常人の想像を超える世界。実は常に登り続けている訳ではなく、ベースキャンプ(既に5300m!)を拠点に少し登っては戻り、また少し目標の高さを上げて登っては戻りを繰り返し、体を順応させながら、その少しずつ上げる目標の高さを頂上に持っていく作業を2カ月程繰り返すのだそうです。

登るという行為自体の難しさももちろんありながら、これは精神力の世界。体力を削がれながら、体重は5kg減り、常に二日酔いのような状態(高山病)で2カ月登ったり下ったりを繰り返す訳です。そして道中には死体が転がっている。そうなると、皆、頂上を目指すという当初の目的を忘れ、やれスペイン隊は調子がいいらしいぞ、などと横との比較をし出すようになるそうです。また、頂上目前のキャンプにはそこまで登ってきている各国の隊が最後の登頂へのアタックの準備をしているそうですが、先頭を切って出ると登頂のためのロープを氷壁に張る作業をしなくてはいけない(体力を消耗する)ことから、どこか他の隊が出たら即後ろを2番手で追随できるように様子見をジリジリとするそうです。

本来は山と向かい合っているのに、いつのまにか横との戦いに目的がすり替わってしまう。山田氏は最後のキャンプから頂上へのアタック、頂上に登ることができればそれでいいという考えで、先頭で飛び出していったそうです。

・既存のやり方に囚われない
山の業界はすごくプリミティブな業界だそうで、いわゆる昔からの通説が幅を聞かせているそうです。その一つが、山に登るには山に入って研鑽を積むしかない、という考え。エベレストアタック前にも普通は近くのエベレストに次ぐクラスの山を登ることで順応していくのが通例だそうですが、山田氏は、そこでの体力消耗や期間・お金がかかりすぎるということから、日本の低圧トレーニング施設に通わせてもらう交渉をしそこでトレーニングを積んだそうです。

また、現在手掛けている登山道具レンタルも然り。今までは素人も富士山に登るために総額10万円程の装備を準備しないと参加できないような障壁の高かった世界に、レンタルという(他業界では当たり前の)考え方を導入。富士山に登る人は別にこれから本格的に登山を始めようとしている人ばかりではなく、もっと気軽に登れればという潜在的な顧客がいるのではないかという分析をベースに事業を始めたところヒットしたそうです。

・小さな決断を積む
「七大陸最高峰最年少登頂記録!」「マッキンゼーという経歴を捨て登山というビジネス不毛の地で起業!」といったように、脚色も含め結果として大きな決断をしたように結果論としては見えがちです。これはご本人も話されていたことですが、七大陸最高峰登頂はある書籍を読んで俺もできるかもというノリから始まったそうですし、起業も元々山がバックグラウンドでそこでミッションを持つ者としてはリスクはあまり感じなかった、むしろこれまでの経歴をフルに活用してやるというくらいで、ということです。

逆説的ですが、大きな決断に見えるところに、実は大きな決断はない、ということなのかもしれません。始めは、シンプルに「やりたい」「やるべき」というところに素直に一歩実行をするところから始まり、その後にやるべきことを目的に照らして慎重に細分化し、小さな決断を頻度高く繰り返すことに成功のヒントがあるのではないかという印象を受けました。

・戦略的に準備する
当然登り始めたら体力や技術がないと登れないのは事実ですが、お話を聞いていると登るための状態づくりが登頂の成否を大きく決めているように感じました。山田氏の言葉を借りると「成田を出た時点で80%成功している」とのこと。エベレスト登頂には学生バイトでは賄いきれない多額の資金を必要とするため、うまく「最年少記録」(本人はどうでもよかったらしい)を梃子にスポンサー集めをしたり、上述のように目的のために分析的に打ち手を導いたりと、事前の準備に緻密な計算があります。

「実行までに時間をかける」ということと「準備を怠らない」ということは似て非なるものであるということを再認識しました。


書いてみるとあまりに当たり前すぎる話。当たり前過ぎることをできないと高い山には登れないという証左でもあるように思いました。(まとめ方が悪いという噂も、笑)