2013年6月20日木曜日

カンの限界を超える創造の方法論 -KJ法の生みの親:川喜田二郎『発想法』を読んで-

川喜田二郎というと、誰それ?という人も多いと思いますが、KJ法というと、あーなんか聞いたことある、整理学の手法か何かだっけ、という人が多いのではないでしょうか。

何を隠そう私自身がそんな感じで、ろくに原著やその背景にある考え方に当たることなどせず、インタビューやブレストで出てきたトピックをポストイットか何かに書き出して、それを意味合いの近いもので括っていくことで、断片的な情報が体系的に整理でき、それを組み合わせたり並べ替えたりすることで、「課題は大きく言うとこの3つです」的な整理ができたり、課題の連鎖的なものをストーリー化できたり、みたいなことが、KJ法に対するザックリとした理解でした。

このKJ法について記された書籍がありまして、それが『発想法』『続・発想法』です。ちなみに『発想法』は1967年発刊です。こんなに息の長い方法論だとは勉強不足だったのですが、今にも通用する内容が多く、普遍的なものだからなのか、それともこの分野に目立った発展がないのか、よくわかりません。少し話はそれますが、ブレインストーミング(ブレスト)についても書かれていて(発案は別の人)、これもなんと1950年頃に考案された手法だそうで、「人の意見を否定しない」「ばかげたことでも自由に意見を出す」「量を重視する」「他人のアイデアに便乗し発展させる」といったルールも当時からあったそうで、これもまんまだなと驚きました。

この書籍を知ったのは、とあるブログで、最近「デザイン思考」とか「人間中心のデザイン」とか言うけど、その方法論の背景にある考え方って川喜田二郎がKJ法でまとめた考え方とすごく近い、というような記述を見て、そんな考え方が背景にある方法論だったのかと興味を持ったのが改めてちゃんと読んでみようと思ったきっかけです。

方法論の詳細については、他にも色々と記事や文献があるようなので詳細はそちらにゆだねますが、有名ないわゆるKJ法の解説以外にも、下記の「W型問題解決モデル」というような科学やその他の各種問題解決に活用可能な手法もまとめられています。これなんかはまさに製品・サービスの対象となる人間の観察を起点にした「人間中心のデザイン」にものすごく近い印象。そもそもが川喜田氏自身も文化人類学者です。

川喜田氏は下図のA→D→E→Hの思考レベルに閉じた科学を「書斎化学」、D→E→F→G→Hの推論からスタートする実験観察を通じた科学を「実験科学」、A→B→C→Dの問題提起から予断を持たず現場での探索観察を通じて仮説を作り出す科学を「野外科学」と呼んでおり、実はKJ法というのはこの「野外科学」において探索観察で得られた情報を統合し仮説という発想にまとめ上げる手法なのです。



『発想法』の副題は「創造性開発のために」です。結びに下記のようにあるように、川喜田氏がまとめあげようとしたのは「整理の方法論」ではなく「創造の方法論」なのですね。その点は大いに誤解をされているように思います。(私だけ?)
この発想法は、分析の方法に特色があるのではなく、総合の方法である。はなればなれのものを結合して、新しい意味を創りだしてゆく方法論である。分析的な方法だけではわれわれの世界は不十分である。
さて、少し取りとめがなくなってきましたが、最後になぜ川喜田氏がこのような創造の方法論をまとめようと考えられたのかという背景にある考え方が面白かったので、そのエッセンスを抜き出しておきます。平たく言うと、日本人は創造を生み出す資質はベースとしてあるのに、変に小器用でそれに頼るものだから、その能力を超える難題になると途端に路頭に迷う。そこで元々ある資質をうまく生かしつつ体系的に事に当たれる方法論があるとすごく強いのではないか、というようなことかと思います。これはすごく実感値ありますね。
日本人は「理論信仰」と「実感信仰」の両面をもっているが、(中略)いざというい土壇場のところでは、理論はとらずに実感信仰をとるくせに、表面的にはいかにも理論を信じているように自分も思い込むし、ときにはそのようなジェスチュアもするのである。すなわち、最後は日常体験ないし「生活の知恵」のようなもののほうを信頼しているくせに、頭のテッペンでは、輸入した中国の古典的理論や西欧の理論などを信じている。この双方のあいだに関連がない。 
アメリカ人は、ものごとの一つ一つの概念を、鮮明な輪郭で取りだす傾向がある。(中略)概念をとりまいてはっきり限定を加える輪郭のないのが、日本人の世界らしい。 
アメリカ人は、おのれという個人主義のカラが固く、そのおのれを外へ征服的に押しつけることにのみ急になる欠点がありはしないか。つまり、自分の青写真にあわせて「外界」を料理しようという一面への偏りすぎが・・・。(中略)日本人は足もとの体験からなにかを「総合する」という個人的能力が、ある意味でアメリカ人よりもすぐれていると思う。 
日本人は体験を総合化するという直観力にすぐれているために、かえってその武器に初めから終わりまでぶらさがろうとする。(中略)いくら日本人が直観的総合力、状況判断の洞察力に優れているといっても、それは現実が比較的単純な場合にだけ可能であるにすぎない。現実が複雑になってきた場合には、直観だけで一挙に総合化することは、何びとといえども不可能なのである。それにもかかわらず、日本人は一次的な直観体験から一挙に総合化して、ある問題解決の道を見いだすヒントをつかもうとあせるのである。息の短い総合化の方法にあまりにももたれかかっているといえよう。
そのために、そのような方法ではついに不可能な複雑な事態にぶつかると、とたんにこんどはあきらめてしまう。そして情報のまとめのために「どこかに頼るべき手本はないか。モデルはないか」という模倣の姿勢に一挙に転ずるのである。息の短い直観的総合力と、それに伴う息の短い創造性。それでものごとが処理できないと、たちまちにして模倣に転ずる。 
小さな直観的総合能力、小さなヒントのひらめきを、事実に密着しながら、大きなひらめきに組み立ててゆく方法を日本人はもっていない。それ以上に根気よく積み上げる道に対して、はじめから投げだしてかかっているように思われる。
川喜田氏の功績(上から目線。。)は、カンに頼ってきた暗黙知の世界を体系立てて方法論としたところにあるかと思います。真意が正確に理解され、最大限に活用されているかというとそうではない印象です。

ご参考までに、現代で言うと、私の中ではデザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏のアプローチが、なかなか形式知化しにくい領域で方法論をまとめておられるという意味ですごく近いなあと思っています。過去にまとめた記事を参考までに置いておきます。

イノベーション:7つの落とし穴 -整理ではなく創造のためのイノベーション・フレームワーク-

アイデア創出の処方箋「バイアス崩し」 -Ziba濱口秀司氏プレゼン@TEDxPortland-

2013年6月16日日曜日

当たり前過ぎることをできないと高い山には登れない -登山家であり起業家、山田淳氏の講演を聞いて-

久しぶりの投稿です。2013年初投稿が6月、しかも前回が昨年の8月。。誰に求められているものでもないですが、なんとも間が空きすぎました。特に再開をするキッカケのようなものがあった訳ではないのですが、少し考えるべきことも多くなり、その時の考えごとに直接関係がなくとも思考やインプットを整理していこうかなと思っているところです。

さて、先日、登山道具レンタルビジネスの起業家である山田淳氏の講演をお聞きし、少し意見交換させていただく機会がありました。氏の経歴ややられていることは、下記の記事がわかりやすいです。

新世代リーダー 山田 淳 登山ガイド 山の世界から見る新しい日本

特にその経歴(灘・東大→七大陸最高峰最年少登頂記録→マッキンゼー→起業)がとにかく目を引きますが、ご本人は親しみやすいキャラクターと軽妙なトークで人を惹きつける方で、氏の登山ガイドを受けた人は「山田さんファン」になり、「どの山に登りたいかより山田さんと登りたい」という状態になるそうです。「そこに山があるから」ではなく「山田さんと登れるから」という(笑)

講演では七大陸最高峰登頂の話を中心に、直近の起業も絡めたお話もお聞きできました。月並みすぎますが、(色々な比喩での)「山に登る」ということに対して、山田氏がどのようにアプローチされているのか、私の得たことを整理します。

・目的を忘れない
七大陸最高峰最難関のエベレストの登頂ともなると、常人の想像を超える世界。実は常に登り続けている訳ではなく、ベースキャンプ(既に5300m!)を拠点に少し登っては戻り、また少し目標の高さを上げて登っては戻りを繰り返し、体を順応させながら、その少しずつ上げる目標の高さを頂上に持っていく作業を2カ月程繰り返すのだそうです。

登るという行為自体の難しさももちろんありながら、これは精神力の世界。体力を削がれながら、体重は5kg減り、常に二日酔いのような状態(高山病)で2カ月登ったり下ったりを繰り返す訳です。そして道中には死体が転がっている。そうなると、皆、頂上を目指すという当初の目的を忘れ、やれスペイン隊は調子がいいらしいぞ、などと横との比較をし出すようになるそうです。また、頂上目前のキャンプにはそこまで登ってきている各国の隊が最後の登頂へのアタックの準備をしているそうですが、先頭を切って出ると登頂のためのロープを氷壁に張る作業をしなくてはいけない(体力を消耗する)ことから、どこか他の隊が出たら即後ろを2番手で追随できるように様子見をジリジリとするそうです。

本来は山と向かい合っているのに、いつのまにか横との戦いに目的がすり替わってしまう。山田氏は最後のキャンプから頂上へのアタック、頂上に登ることができればそれでいいという考えで、先頭で飛び出していったそうです。

・既存のやり方に囚われない
山の業界はすごくプリミティブな業界だそうで、いわゆる昔からの通説が幅を聞かせているそうです。その一つが、山に登るには山に入って研鑽を積むしかない、という考え。エベレストアタック前にも普通は近くのエベレストに次ぐクラスの山を登ることで順応していくのが通例だそうですが、山田氏は、そこでの体力消耗や期間・お金がかかりすぎるということから、日本の低圧トレーニング施設に通わせてもらう交渉をしそこでトレーニングを積んだそうです。

また、現在手掛けている登山道具レンタルも然り。今までは素人も富士山に登るために総額10万円程の装備を準備しないと参加できないような障壁の高かった世界に、レンタルという(他業界では当たり前の)考え方を導入。富士山に登る人は別にこれから本格的に登山を始めようとしている人ばかりではなく、もっと気軽に登れればという潜在的な顧客がいるのではないかという分析をベースに事業を始めたところヒットしたそうです。

・小さな決断を積む
「七大陸最高峰最年少登頂記録!」「マッキンゼーという経歴を捨て登山というビジネス不毛の地で起業!」といったように、脚色も含め結果として大きな決断をしたように結果論としては見えがちです。これはご本人も話されていたことですが、七大陸最高峰登頂はある書籍を読んで俺もできるかもというノリから始まったそうですし、起業も元々山がバックグラウンドでそこでミッションを持つ者としてはリスクはあまり感じなかった、むしろこれまでの経歴をフルに活用してやるというくらいで、ということです。

逆説的ですが、大きな決断に見えるところに、実は大きな決断はない、ということなのかもしれません。始めは、シンプルに「やりたい」「やるべき」というところに素直に一歩実行をするところから始まり、その後にやるべきことを目的に照らして慎重に細分化し、小さな決断を頻度高く繰り返すことに成功のヒントがあるのではないかという印象を受けました。

・戦略的に準備する
当然登り始めたら体力や技術がないと登れないのは事実ですが、お話を聞いていると登るための状態づくりが登頂の成否を大きく決めているように感じました。山田氏の言葉を借りると「成田を出た時点で80%成功している」とのこと。エベレスト登頂には学生バイトでは賄いきれない多額の資金を必要とするため、うまく「最年少記録」(本人はどうでもよかったらしい)を梃子にスポンサー集めをしたり、上述のように目的のために分析的に打ち手を導いたりと、事前の準備に緻密な計算があります。

「実行までに時間をかける」ということと「準備を怠らない」ということは似て非なるものであるということを再認識しました。


書いてみるとあまりに当たり前すぎる話。当たり前過ぎることをできないと高い山には登れないという証左でもあるように思いました。(まとめ方が悪いという噂も、笑)

2012年8月9日木曜日

変えないということ -深澤直人氏のコラムを読んで-


深澤直人というデザイナーをご存じでしょうか。
(ここに経歴など)

という問いかけも変に聞こえるくらい有名な方なのでご存知の方も多いかと思いますが、氏はauの携帯「インフォバー」や「±0」というブランド(加湿器は多分誰しも見たことある)が有名なデザイナーで、元IDEO日本法人代表(今はないが当時は日本にもあったらしい)でもあった方です。

この深澤直人氏が「d design travel」という47都道府県のトラベル情報が掲載された雑誌にコラムを連載されています。この雑誌をどこかで目にした時に、「変えないということ」という回の内容が印象的でメモっていたのを思い出しました。コラム全体ではありませんが、特に印象に残っている部分だけ下記に引用させてもらいます。
長く使われてきたものは、もう生活の分子になっているから簡単に変えようとしてはいけない。「保守的」といわれるかもしれないが、「保守」ということばには2つの意味がある。1つは、「正常な状態を保つこと」。もう1つは、「旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること」。それはまさしく長い年月を経て「ふつう」になってきたことを「ふつう」のままにしておこうとすることだと思った。保守の反対は革新で、その意味は旧来の制度を改めて新しく変えることである。制度を改革するのであって、よいものを新しく作ることとは違う。変えるのではなく、しっくりいっていないことを正し、改善すること。デザインは「変える」こととか「新しく」作ることだと思い込んでいる人は少なくない。そういったデザインの一般論に反抗して「変えない」ということは易しくない。「自分のデザイン」というような気持ちを捨てなければならない。でもそうやっていいものを継承して現在の生活に合わせて少しずつ直していこうとすれば、いつか自然に新しいものがぼろっと生まれる時がある。新しいのに、ずっといいものと繋がっているいるようなものができる時がある。

散文的で少しわかりにくいところもある(ご本人のスタイル?)のですが、「変えない」デザインの大切さと難しさ(革新を否定しているわけではないが、何でもかんでもただ変えることが良しとされることへの警鐘)を述べられた内容なのかと理解しました。

身の回りで言うと、生活の分子になっているというと、例えば茶碗みたいなもののことでしょうか。確かに私も、ご飯を食べる器に対して特に新しい形状や独自性を求めていませんし、革新的な米のよそい方を欲しているわけでもありません。

食事に関する周辺を見てみると不思議なもので、人の食生活はライフスタイルとともに変化していますし、台所の機能もだいぶ昔と変わっていますし、器によそう食事そのものにもどんどん変化があります。そんな変化の中にあって、茶碗だけは長い間変わっていない(変化を求められない)という不思議。これが氏の言う「生活の分子」というものでしょうか。

これ、自身の仕事で扱っているビジネスやサービスに当てはめるとのどのようなことが言えるのか、一考に値すると思います。

  • 「変えるもの」と「変えないもの」をしっかりと峻別できているのか
  • 「変えること」だけを是としていないか
  • 「意図的に」そのままにしているものはあるか

「戦略とはやらないことを決めること」というのはあまりにも有名ですが、自分のビジネスで「変えないこと」についてもこのお盆にでも考えてみたいと思います。

2012年7月12日木曜日

シンプリシティ(Simplicity)とは -シンプリシティはシンプルに非ず-


最近、生活をなるべくシンプルにしたい(ありたい)と思っていたり(年齢のせい?)、仕事でも、例えばサービスの企画にあたっていかにシンプルな仕掛け・機能で本質的なニーズを満たせるか、ということを気にしていたりします。

シンプルにすること(であること)。デザインやサービスのインプリメンテーションにおいては、シンプリシティ(Simplicity)という言葉でよく言われているように思います。

シンプリシティ(Simplicity)を英英辞書で引くと、下記のような記述があります。
the quality of being simple and not complicated, especially when this is attractive or useful:
(Longman オンライン版より)
つまり、シンプリシティとは、単純にシンプルである(簡単、簡素である)ということだけではなく、前提として魅力的であり実用的であるということです。ここは忘れやすい。(TO:自分)

これをサービスに置き換えて考えてみると、サービスが魅力的であり実用的であるということは、ユーザーの抱える課題を解決しニーズを満たすものであることを意味すると考えられます。シンプリシティを実現することがそんなに簡単でないことがわかります。

下記は、アップルのデザイン責任者Jonathan Iveがシンプリシティに関して答えたインタビュー記事。
"Our goal is to try to bring a calm and simplicity to what are incredibly complex problems so that you're not aware really of the solution, you're not aware of how hard the problem was that was eventually solved." 
"Simplicity is not the absence of clutter, that's a consequence of simplicity. Simplicity is somehow essentially describing the purpose and place of an object and product. The absence of clutter is just a clutter-free product. That's not simple." 
"The quest for simplicity has to pervade every part of the process. It really is fundamental."
Jonathan Ive interview: simplicity isn't simple より

皆がソリューションに気付いていなかったり、解くのが非常に難しい複雑な問題にシンプリシティをもたらすことがゴールである。そして、乱雑さが排除されている状態はシンプリシティの結果であり、それ自体がシンプリシティが意味するものではない。というような趣旨かと。

また少し畑の違うところで、小説家の村上春樹はこのように言っています。

"My goal is to use simple words to tell complicated stories."
非常に簡単な言葉で、非常に複雑な物語を語りたいというのが、僕の目指していることだ。
Japan's Murakami says metaphor more real after 9/11 より


シンプリシティは決して簡単なことではない、むしろ解釈が非常に難しいテーマであると、意識すればするほどそのように思います。

シンプリシティ実現の前提には、目的(複雑なことを伝える、複雑な問題を解決する等)が存在します。これが必要条件。その上で、その問題を解決するための最善の手段(十分条件)としてシンプルであることが求められると理解できます。(よりわかりやすく伝わる、より課題が解決しやすい)

あるいは、複雑な問題そのものにメスを入れる、つまり、よりメタレベルの問題に昇華させるあるいは問題を絞り込む、ということも手段としてのシンプリシティなのかも知れません。

いずれにしても、シンプルであることが必要条件として独り歩きする状況って結構あるな、それは本来とは違うなと。シンプルにしたからと言って、So What?なものって意外と多いように感じます。

最後に、シンプリシティに並々ならぬ拘りを持っていたであろうスティーブ・ジョブズの言葉。ハーバードビジネスレビュー2012年8月号『イノベーション実践論』の記事から(原典は未記載)
ある問題に着目した時に、『シンプルきわまりない』と思ったとしよう。この場合、問題の複雑さを本当に理解しているとはいえない。単純すぎる解決策しか生まれないだろう。問題に深くかかわってみると、実はとても入り組んでいたのだと気づく。それから、手の込んだ解決策のあれこれを考え出すのだ。 
真に偉大な人物は、前進を続けるだろう。そして問題の根底にある本質を掘り起こし、美しくエレガントで、しかも効果的な解決策を考えだす。

シンプリシティ(Simplicity)はシンプルに非ず。

2012年7月4日水曜日

小説を書くこととサービスを立ち上げることの共通点 -『雑文集』(村上春樹)より雑感-


最近、通勤途中とか休日のお茶する時とかに、ちょこちょこと村上春樹の『雑文集』を読んでいます。これ『雑文集』という名の通り、著者がどこかに寄稿したエッセーとか、誰かの本に書いた後書きとか、何かの受賞記念講演とか、ちょっとした雑文が集められたものです。非常に短い文章の集まりなので、細切れな時間とかボーっと流し読みたい時とかにすごく良い。もともと村上春樹のエッセーが好みというのもある。(小説より好きかも)

で、その一つ目の雑文を読んでいて、ふとあることを思ったのでメモ。まずは、『雑文集』より、幾つか引用。
小説家とは何か、と質問されたとき、僕はだいたいいつもこう答えることにしている。「小説家とは、多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間です」と。
なぜ小説家は多くを観察しなくてはならないのか?多くの正しい観察のないところに多くの正しい描写はありえないからだ(中略)それでは、なぜわずかしか判断を下さないのか?最終的な判断を下すのは常に読者であって、作者ではないからだ。小説家の役割は、下すべき判断をもっとも魅惑的なかたちにして読者にそっと手渡すことにある。
良き物語を作るために小説家がなすべきことは、ごく簡単に言ってしまえば、結論を用意することではなく、仮説をただ丹念に積み重ねていくことだ。
読者はその仮説の集積を自分の中にとりあえずインテイクし、自分のオーダーに従ってもう一度個人的にわかりやすいかたちに並べ替える。その作業はほとんどの場合、自動的に、ほぼ無意識のうちにおこなわれる。僕が言う「判断」とは、つまりその個人的な並べ替え作業のことだ。
仮説の行方を決めるのは読者であり、作者ではない。物語とは風なのだ。揺らされるものがあって、初めて風は目に見えるものになる。

どうでしょうか。

この文章を読んで私が思ったことは、「良い作品を書く小説家と良いサービスを出す者、良い小説と良いサービスには、共通点があるのではないか」ということ。これはサービスだけではなく、製品にも言えることかも知れません。

もしかしたら、このブログでも取り上げている「人間中心のデザイン」(参考記事:人間中心のデザインの原則 -『誰のためのデザイン?』を読んで-)とか「アジャイル」(参考記事:ビジネスにもアジャイルという方法を -誤りや変化を歓迎する方法論-)とか、その辺のキーワードが頭にあるからかも知れません。

観察を重視し、ユーザーと一緒に作る感覚。ビジネスにおいて判断は流石にするんだけども、仮説の積み重ねでローンチし、ユーザーも巻き込んで判断・検証をしていく、つまりローンチがゴールではなく、そこがスタートである点。決して何も考えていないわけでも、ユーザーにおもねっているわけでもなく、そこには確固たる伝えたいメッセージや提供したい価値はある。なんだかすごく共通点がある気がします。

雑感ながら。


やれやれ。

2012年6月22日金曜日

目先・小手先の問題解決にフォーカスしていないか -『Good Product Manager, Bad Product Manager』より-

良い記事を読んだのでご紹介。

ネットスケープ・コミュニケーションズ社の元幹部で、アンドリーセン・ホロウィッツというGroupon/Facebook/Twitter/Foursquareといった名だたるテック企業に投資するVCの共同創業者であるBen Horowitz氏が、かつて(ネットスケープ時代?)書いた『Good Product Manager, Bad Product Manager』という記事。1996年のもののようだけど普遍的な内容のため一読の価値あり。

原文(英語/PDF)はこちらから。


以下、幾つか抜粋(日本語は意訳)。他にも色々なGood/Badの対比が原文にはあります。

・イケてるプロダクトマネジャー(以下、PM)は「What」をくっきり描き出す、ダメなPMは「How」に心頭する
Good product managers crisply define the target, the “what” (as opposed to the “how”) and manage the delivery of the “what”.
Bad product managers feel best about themselves when they figure out “how”.

・イケてるPMはインフォーマルに指示は出さないが、逆に情報収集はインフォーマルに行う
Good product managers don't give direction informally. Good product managers gather information informally.

・イケてるPMはレバレッジをかけられる作業をし、ダメなPMは一日中問い合わせ対応に追われる
Good product managers create collateral, FAQs, presentations, and white papers that can be leveraged.
Bad product managers complain that they spend all day answering questions for the sales force and are swamped. 

・イケてるPMは収益と顧客に、ダメなPMは競合が何をやっているかにチームをフォーカスさせる
Good product managers focus the team on revenue and customers.
Bad product managers focus team on how many features Microsoft is building.

・イケてるPMは問題を分解するが、ダメなPMは問題を一つにまとめる
Good product managers decompose problems.
Bad product managers combine all problems into one.


全般通じて、タイトルにも書いたように、忙しさにかまけて目先の(あるいは小手先の)問題解決にとらわれていないかというチェックリストになりそう。雑務がたまりにたまって肝心なことができない、火消しに追われているということは、何かが根本の部分で間違っている可能性がある。そんな時こそ、目的やゴールに改めて立ち返り、自身が近視眼的になっていないか、大局に立ってものごとを見ることができているか、自問自答する必要がありますね。

急がば回れ。日々の業務に埋もれそうになった時に立ち返る一つの材料として。

2012年6月19日火曜日

制約はイノベーションの母 -名詞ではなく、動詞で考える-


何か画期的なアイデアを出しましょう、これまでにない発想で考えましょう、といった場合に、よくやるのがまずはゼロベースで様々な規制・慣習やリソース(ヒト・カネ)の前提を「取っ払って」議論してみるというやり方です。確かに、本当にその前提は崩せないのか疑ってみる、発想が行き詰った時に一旦大きく考えを振ってみる、といったケースには非常に役立つやり方であると思います。

ただそれと実現性を無視することとは大きく異なります。実際の世界には制約が満ち溢れています。お金がない、時間がない、技術がない、資源がない、などなど。これは無視しようにも無視できません。(一定の工夫はできるでしょうが)

では、この「前提を取っ払って考える」ということの本質は何なのか。

■実際の世界は制約だらけ
実際の世界には制約が満ち溢れている、この代表例がBOP(ボトム・オブ・ピラミッド)の世界かと思います。このBOP市場にイノベーションが生まれえないのかというと、そんなことはありません。一昨年亡くなったC.K. プラハラード教授の著書『ネクスト・マーケット 「貧困層」を「顧客」に変える次世代ビジネス戦略』で、一躍BOP市場やそこでのイノベーションに注目が集まりましたが、制約をうまく活用(回避?)したアイデアや、場合によってはその制約があったからこそ先進国では発想できなかったようなイノベーションが生まれています。

このBOP市場における制約を超えるイノベーションの事例は下記の書籍に詳しかったです。ビジュアルも多くて読みやすい。

『なぜデザインが必要なのか――世界を変えるイノベーションの最前線』

『世界を変えるデザイン――ものづくりには夢がある』

一つ目の書籍に掲載されている事例はほぼこちらのサイト(英語)に網羅されているのでご参照ください。

■制約はイノベーションの母
ここで重要なのは、「制約があるからイノベーションが生まれる」のではなく、「制約があるからイノベーションを生む必要がある」という点ではないかと思います。つまり、待っていれば勝手にイノベーションが生まれるのではなく、制約を受け止めそこからプロアクティブにイノベーションを起こそうとしてこそイノベーションは生まれる、ということです。まあ当然のことではあるのですが。

この制約をうまくイノベーションに活かすという考え方、デザイン思考という文脈ですが、IDEOのCEOティム・ブラウンの著書『デザイン思考が世界を変える―イノベーションを導く新しい考え方』でも言及されています。
相反するさまざまな制約を喜んで(特に熱烈に)受け入れることこそ、デザイン思考の基本といえる。多くの場合、重要な制約を見分け、その評価の枠組みを制定するのが、デザインプロセスの最初の段階だ。制約は、成功するアイデアの三つの条件と照らし合わせると理解しやすい。それは、「技術的実現性」(現在またはそう遠くない将来、技術的に実現できるかどうか)、「経済的実現性」(持続可能なビジネス・モデルの一部になるかどうか)、「有用性」(人々にとって合理的で役立つかどうか)の三つだ。

■制約がある中でイノベーションを生むためには
ここで冒頭に言及した、「前提を取っ払って考える」ということの本質、に戻るのですが、制約の中から生み出すイノベーションにおいて非常に重要になることは、「視座を広げる」ということであると思います。これが「前提を取っ払って考える」ということの本質ではないかと。

「視座を広げる」という意味を理解するためには、『デザイン思考の道具箱―イノベーションを生む会社のつくり方』という書籍に紹介されていた下記の記述が良いヒントになると思います。
当時からIDEOは「名詞ではなく、動詞で考える」デザインを主張していた。モノそれ自体をデザインするのではなく、行動をデザインするという考え方だ。

「名詞ではなく、動詞で考える」とは、例えば、「冷蔵庫」ではなく「貯蔵する」で考えるということであると理解しています。モノそのものをどうするかではなく、そもそもの目的に立ち返って広い視座で問題そのものを考える。例えば、電気の通っていない(あるいは落ちがち)な地域に、ただ超低コストの冷蔵庫を持っていったところで成功するでしょうか。そこには冷蔵庫に代替する何かしらの貯蔵するもの(場合によってはコト、方法かも)が必要になるはずです。

書き終わって気付いたのですが、なんか書籍の紹介エントリみたいになってしまった。。制約が目の前にあった時、「前提を取っ払って考える」ということの本質を見失わない思考が必要だなー、ということでのエントリーでした。