2013年8月23日金曜日

考えさせ、ただ見ているだけのマネジメント -『采配』を読んで-

最近組織や人の話がやたらと続いてしまっています。が、懲りずに続けます。

『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』や『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』といった以前のエントリで、「動機」や「意思」といったものについて考察し、それらを外から動機「付ける」ことや意思を「高める」ことなど可能なのかということを書きました。

もちろん人間なので誰しも圧力がかかれば最大瞬間風速的に動機や意思は高まるでしょうし、その効果は否定しませんが、それを持続的なものにするには「真に内発的な動機や意思」が必要なのではないかと考えています。どうも今流行りの「内発的」動機づけ理論はハードではなくソフトな手法を使っているだけで、まだ外発的な印象がするのです。それもあって、上記のエントリでは、「ハーズバーグの二要因理論」をヒントに、動機や意思を直接高めるのではなく、それらの発揮を阻害している要因を取り除くことが重要ではないのかという仮説を書きました。

「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」ということ以外に方法はないのか。

そんなことを考えている時に、前中日ドラゴンズ監督落合博満氏の『采配』を読みました。別に動機がどうとかいう目的で読んだわけではなかったのですが、示唆のある内容がありましたのでご紹介。

それは、落合氏の「選手に自分自身で考えさせる働きかけ」です。言葉にするとあまりに普通すぎるので内容を引用します。落合氏は中日ドラゴンズの監督の就任直後(秋頃)に下記のようなメッセージを選手に対して送ったそうです。
来年2月1日のキャンプ初日には紅白戦を行います。
私は野球にそこまで詳しくないので正しい説明ができるか自信はないですが、普通はオフシーズン明けはまずはオフになまった体の基礎を作り直し、各人の昨シーズンの課題に照らした練習を積んで実戦向けの状態を作り、今シーズンに向けての実戦練習として紅白戦をするというイメージです。それをなぜ最初にしたのか。落合氏のタネ明かしはこうです。
何か監督からの指導があるわけでもなく、いきなり紅白戦?
選手は色々なことを考えただろう。本当にキャンプ初日から紅白戦をやるのか。ただの脅しではないのか。初日から紅白戦をこなすためには何をすればいいのだろう。紅白戦の結果によって選手を振り分けるのだろうか。
私としてみれば、「新監督の謎めいたメッセージ」によって、選手たちが12月から1月の2ヶ月間、常に野球のことを考え、自分なりの準備に取り組んでくれればよかった。
何を隠そう、それが誰からも押しつけられたのではなく、自分自身で自分の野球(仕事)を考える第一歩だからだ。
(中略)
果たして、2004年2月1日に紅白戦を実施すると、選手たちはすぐにペナントレースが開幕しても戦える状態に仕上げてきた。
何というか、「動機付け」という行為はしていないのですが、選手が自分自身で考えるプロセスを通じて、結果として押しつけられずにまさに内発的に選手の動機が高まっている様子が窺えます。落合氏は「自分を成長させるのは自分しかいない」というような考えを持たれているようで、それがこのようなアプローチの背景にありそうです。

関連して下記のような記述もされています。
自由というものが最大の規律になる。
選手の動きを常に観察し、彼らがどんな思いを抱いてプレーしているのか、自分をどう成長させたいのかを感じ取ってやる。
私はコーチングの基本を「教えない。ただ見ているだけでいい」と定義した。実際に監督としてチームを預かることになり、「見ているだけのコーチング」が基本になることは確認できた。
自由ということを規律とし、自分で考えることを重視し、その考えを観察し感じ取る。適切なサポートをする。無理やり引き出すという感じではないし、押し付けもしない。そんなところが落合氏のチームや人のマネジメントの根幹にある気がします。

そして、動機の働く本質を「自分のことを自分で考えること」に置き、自ら考えるきっかけを与える「ゆらぎ」を起こすというやり方です。「動機が高まる」という結果を得るために、「動機付ける」のではなく、「機会を作ることで考えるきっかけを与え、目を配り、観察し、考慮する」という、手間はかかるがきめ細かで間接的なアプローチが有効なのではないかという仮説。そこには以前のエントリで書いた、動機や意思を発揮することを阻害する要因を取り除くことも含まれるのでしょう。

ただ、こういった方法論は、ある程度一人ひとりが自律的に動くことを求められるプロフェッショナル的な人材に対して特に有効な方法かもしれません。組織を選ぶ手法と言えるかも。手間もある程度かかりますし、その時間コストに対する大きなリターンが見込めるかどうかも重要なポイントかもしれないです。

どんな組織にも人にも適用できる方法論という考え方自体が間違っているのでしょうね、きっと。。

2013年8月12日月曜日

追補:能力と意思の暴走に理性の果たす役割 -『ノモンハンの夏』を読んで-

一つ前の『成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-』で、成果を決めるのは能力と意思で、どちらかというと意思が大事で、意思そのものを外発的に高めることって難しい(他の方法はないのか)ということを書きました。

その後にある本を読んで、この2つでは成果を上げるには必要であるが十分ではないと思うに至りました。成果を上げるために必要なもの、もう一つは「理性」です。「論理」と言った方がわかりやすいかもしれませんが、いわゆる論理的思考力のような「能力」とは少し異なるニュアンスなので「理性」と書きます。

読んだ本は半藤一利の『ノモンハンの夏』です。1939年のノモンハン事件(Wikiにも詳しい説明あり)を描いたノンフィクション。多くの取材や文献をベースに関東軍の暴走が詳細に描かれており、ケースで読む意思決定の教科書と言ってもいい傑作です。中古で1円。。

・いかにして情報はゆがみ、誤った意思決定がされるのか
詳しくは一読いただければと思うのですが、関東軍の情報の主観的な選別、独善的な判断は相当にひどい。そして、陸軍としての下部組織(一出先機関)である関東軍をコントロールすべき中央のガバナンスもひどい。

著者半藤氏の関東軍への嫌悪感は相当なもので、その念みたいなものも一部感じられますが、私が読む中で拾った、関東軍の物事を進めるにあたっての誤った意思決定に至るエッセンスとして、思いつくだけでも下記のようなキーワードが挙がります。順不同。

まず根底にある独善的/主観的な情報への態度です。これらのバイアスが情報を適切に選別、分析、判断することをできなくしています。
思い込み、固定した先入観、都合の良い解釈、拡大解釈、楽観にすぎる見通し、実力の過信、弱みや現状の無視、主観的判断、過去の反省教訓化なし、自己正当化
次に、意図的/意識的な意思決定を曲げる行為。ここまで来るとバイアスということではなく、悪意のある謀略。
情報操作、意図的な情報選別、脅し、誘導、隠蔽、意図的に曲げた報告、見切り発車による既成事実化、越権行為
仕上げに、上記を加速/助長する組織文化。土壌として上述のような行為を看過する状態が出来上がります。
エリート「仲間」の馴れ合い、空気、誰が言ったかへの偏重

・能力と意思は暴走する
前のエントリに上げた、成果に必要なのは能力と意思という点。国力が当時どうだったかは置いておいて、関東軍に属した参謀たち(本件の主犯的人たち)は陸軍の中でもエリート中のエリートであり個人としての能力は文句なし、意思においても誤った方向ながら確固たる強い意思を持ち合わせていました。

では、なぜ能力と意思を押さえているのに成果(表現が難しいのですが、誤解を恐れず成果と書きます)が上がらなかったのか。また、成果が誤った方向に向かうのか。

意思と能力があれば、物事を進めたいとなるし、進められる。ここで重要となるのは、そのベクトルが正しい方向に向くか、手段は適切か、結果として方向性や手段が誤っている場合/失敗した場合に修正がきくか、だと思います。この役割を果たすのが「理性」、言い換えると客観的な「論理」であると思います。

本書の題材はかなり特異なシチュエーションと組織ですが、ビジネスにおける示唆もあります。ビジネスでもインパクトを追求する、未知の領域で新しいチャレンジをするには、不確実なゴールを追い、周囲の雑音をはねのけ、次々に訪れる様々な問題を解決して突き進む高い能力と強い意思が必要で、ある種の熱狂のようなものがそこには伴います。良い意味での暴走と言うか。むしろそうではないと新しく難しい問題には立ち向かえないこともあるように思います。

・理性を組織システムで補う
この「理性」を一人一人が能力と意思と合わせて三位一体で持ち合わせるのが理想だとは思います。ただ、上述のように、良い意味での暴走が必要となる場合、組織やチームとしてこの「理性」を担保できると強いのではないか。意思と理性の両立は思った以上に難しい。

ノモンハンの事例で言うと、組織のガバナンスが働かなかったことが悲惨な顛末を招いた要因の一つだと思います。それは関東軍の暴走を抑止できなかった、参謀本部の情報収集・分析の不足、監査の欠如(エリート間の妙な信用・馴れ合い)、権限・権力の適切な行使の欠如、組織構造ではなく人で動く意思決定、トップ層の原理原則のない意思決定などです。これらは能力がなかったということではなく、理性・論理を働かせる組織としての構造や態度がなかったということです。

・「誰が言ったかではなく何を言ったか」を根付かせる
ノモンハンの場合は上述したようにあまりに多くの暴走要因があったのですが、その中でも大きな影響を与えている、逆に言うとそれを克服できれば強力な歯止めになると思われるのは、「誰が言ったかへの偏重」であったのではないかと考えます。本書には、一部の「力」を持った陸軍エリートが意図的に情報の極解と独善的な判断をし、うまく陸軍という集団心理を悪用して押し切る様が克明に描かれています。これさえなければ、様々な情報への誤った態度や意思決定を曲げる行為の大部分は論理で抑止できたのではないか。

ビジネスでも、「誰が言ったか」に流されたり、もっと言うとその「誰か」に言わせることで社内を突破しようとすることもあるでしょう。私も正直に言って絶対ないとは言い切れない。これをいかに組織として「誰が言ったかではなく何を言ったか」をベースとできるかが肝だと思います。

DeNA南場氏の『不格好経営』でも同じような趣旨の記述がありましたね。
DeNAでは、「誰が言ったかではなく何を言ったか」という表現を用いて、「人」ではなく「コト」に意識を集中するように声を掛け合っている。誰かが言ったことが常に正しいと思ったり、誰かに常に同意するようになったら、その人の存在意義がなくなるし、”誰派”的な政治の要素ともなり、組織を極端に弱くする。
もちろん「理性」を個人で担保できれば、それにこしたことはありません。自分を常に客観視できる力。理性を意思と両立できるかは相当に高度な素養ですね。修練修練。。

2013年8月9日金曜日

成果を決めるのは能力か意思か -意思は高めるものではないという仮説-

最近、成果を上げている人、そうでもない人、その違いは何かと考えることがあります。成果を上げるために必要なもの、大きく分けると「意思」と「能力」だと思っているのですが、成果を決めるのは、どちらかというと「意思」ではないか、というのが最近の感覚です。

■意思が成果を分ける
情報や訓練の機会が充実している昨今、ある程度のレベルの仕事をしている人たちの間で「能力」の差は実はあまりないのではというのが一つ。もちろんよっぽど特殊、専門的、あるいは経験(時間)が必要となる能力となると話は違うかもしれません。また、「能力」は低ければ高める方法は(その人にある程度のベースがあれば)ありますが、「意思」は周りが強制的に高めることはなかなか難しいのも理由です。

具体的に日常の業務で考えてみても、「今日やることはきちんと今日やる」というのが仕事のベースだとすると、これを「こなす」のは意思がなくとも能力だけで何とかなります。ただ、それでは誰でもできること(やるべきこと)です。

これが「今日やることの質を今日やれる中でギリギリまで高める(粘って粘って質を高める)」「今日やることはきちんと今日やるを毎日一日も欠けずに続ける(高い質をコツコツと積み上げ続ける)」「明日やっても済むことを今日やる(優先度は低いが重要度が高いものから目を逸らさずに取り組む)」ということになると、能力だけで何とかなる世界ではなくなります。ここには明らかに「意思」が必要です。そして、これが成果を分けるところではないでしょうか。

■意思を持って仕事をするためには、失敗に備える意思が必要
上述のように、質を高めるために「こなす」ことでは必要のないチャレンジをする、絶え間なく続けることで行動の総量が増える、放置しようと思えばできるものにあえて手を出す、ということをすると何が起こるかというと、失敗する可能性が高まるということが言えると思います。

「こなす」ことで済ませるということはすなわち、人は失敗のリスクを無意識に避けているのかもしれません。リスクに気付きながらもあえて「こなす」ことを超えようとするには「意思」が必要なのでしょう。そもそも失敗をリスクとするのかどうかですが、失敗することで人は学習し活動の修正をすることができますから、失敗をうまく活用すれば、これも結果としては成果を高めるということにつながっているとも言えます。

■意思を高めることは可能か
仮に意思が成果のために重要だとして、どうすれば意思の力が働くか。最初に意思を高めることが難しいと書きましたが、世の中、ソフト/ハードで意思を高めようとする施策が流行っているように思います。動機づけ、コミットメントなどといったワードが連想されますが、どのような対象に、どのようなきっかけで、高い動機を持ち力を注ごうとするのか、これは人によりけりです。

そもそも意思というのは自律的なものであり、仮に周囲に高められることがあったとして、それを意思と言うのかは疑問です。これは、以前『動機づけについての雑感 -内発的動機づけによる動機は内発的なのか-』というエントリで論じたことに重なります。そもそも周囲に意思を高めることができるのか。表面的には高まっているように見えても、中長期的に見ると外発的な圧力で人工的に高まった「意思」によって本来のその人固有の意思が押し殺され、逆に意思の希薄化が起こるのではないかとさえ思います。

■意思の発揮を阻害している要因はないか
私の不勉強で世の中的には有名なのかもしれませんが、最近「ハーズバーグの二要因理論」というものを知りました。本旨ではないので簡単に説明すると、人の仕事に対する満足度は、ある特定の要因が満たされると満足度が上がり、不足すると満足度が下がるという裏表の関係(例えば給料が高ければ満足、低ければ不満)ではなく、満足に関わる要因(動機付け要因)と不満足に関わる要因(衛生要因)は別のものであるとする考え方です。つまり、仕事にやりがいを感じているので満足しているが、給与的には不満、という状態があり得るので、それぞれ個別に手当をしないといけないという理論です。

動機付けという言葉が使われているので少しワードが混同して話をややこしくしているのですが、意思を発揮するという観点でも、二要因理論的な考え方は当てはまらないかと思ったのです。つまり、意思が低いから高めればいいという話ではなく、意思は本来あるがそれを別の観点から毀損している(発揮できなくしている)マイナス要因があるのではないかということです。それは上述したような失敗に対する回避的な意識かもしれませんし、重要度の高い仕事に取り組めないほどの優先度に偏った仕事の圧力かもしれません。

意思を高める施策というのは活況ですが、こういったマイナス要因を取り除いてあげることが必要なのかもしれません。何の根拠もないですが、現時点での雑感として。

2013年8月4日日曜日

好き嫌いの経営 -『経営センスの論理』を読んで-

『経営センスの論理』読了。著者の楠木建氏は『ストーリーとしての競争戦略』の著者で一橋大学大学院教授。前著がなかなか面白かった記憶があったので手に取りました。内容はAmazonの書評にあるように賛否ありそうな感じで、良くも悪くも、ユルくて軽い。もともとハーバードビジネスレビューのWEBサイトに連載していたコラムを再構成した内容ということもあり、理論とか体系立った分析ではなく、まさにセンスで書いた散文を寄せ集めた内容。通勤電車でサクッと読む感じが丁度良いです。

タイトルにある「センス」についてはあまり深堀りされておらず、そこは残念。まあセンスの話はセンスでしかできないみたいなこともあるのか、論理立てて文章にするというのは難しいのだろうと思います。

ただ、寄せ集めの文章ならではの良い面もあって、それは読み手の解釈次第で散りばめられているエッセンスから何らかの意味合いを勝手に見いだすことができること。個人的に、本書には、経営における「綜合的なモノの見方」を考えるエッセンスが色々とあったかな、と思います。著者は、経営には「アナリシス(分析)とシンセシス(綜合)の区別」が必要で、「戦略の本質はシンセシスにある」と述べています。分析的なモノの見方だけでは事業を動かすとか経営(的な動き)をするといった場合には不十分、ということは、非常に重要なポイントであるように思います。

少し話がそれますが、DeNA創業者南場氏の『不格好経営』にも、コンサル出身者が事業をやる側に回る上でアンラーニング(学習消去)すべき点として、「何でも三点にまとめようと頑張らない。物事が三つにまとまる必然性はない。」を挙げていました。これ見た時あまりに的を得ていて笑ってしまったのですが、経営における物事は、常に三つにMECEにまとめられるほど単純ではなくて、もっとダイナミックにつながり影響し合っているし、デジタルに一定の軸で分解できないごにょごにょっとした何かを含むやっかいなものである。無理やり三つにまとめるという行為は、まとめている(=綜合)のではなく分解している(=分析)にすぎないということを言わんとしているのだと私は解釈しました。裏返すと、経営や事業を動かすにあたっての綜合とは、そういった分析的行為とは似て非なるものだと。

話がそれたついでに、上記に並べて南場氏が書いていたコンサル出身者へのアドバイスとして面白かったのが「自明なことを図にしない。」「人の評価を語りながら酒を飲まない。」「ミーティングに遅刻しない。」です。いやー、もう耳が痛いですね(笑)

話を戻します。

本書にある、経営における綜合的なモノの見方のエッセンスとして私が特に気になったものは、「好き嫌いをどう経営に織り込むか」「商売は自由意志」という2点です。

「好き嫌いをどう経営に織り込むか」について、どう織り込むかの解(方法論)はありません。著者は下記のようなことを言っています。
会社内での議論や意思決定では、好き嫌いについての話は意識的・無意識的に避けられる傾向がある。好き嫌いはあくまでも個人の主観だ。会社内での何らかの判断が必要となったとき、好き嫌いで決めてしまえば、意思決定の組織的な正当性が確保しにくい。客観的な「良し悪し」が前面に出てくるという成り行きになる。(中略)それだけでは他社との差別化を可能にするような面白みのある戦略にはならない。(中略)「こっちのほうが面白そう」「そういうことは嫌いだからやりたくない」という理由で物事が判断されてもいいはずだ。
確かにこれは実感値があり、実際にそういう意思決定の場面も日常の事業運営で行われますが、これをどうやって組織的な力にするかが課題かもしれません。

また、「商売は自由意志」という点ですが、ビジネスの根本原則は「自由意志」であり、誰からも頼まれていないし、誰からも強制されていない。しかし、よく経営者から聞かれるのは「~せざるを得ない」という言葉だとか。これを言った瞬間に、「商売は自由意志」という原則に照らすと、経営の自己否定となります。商売は「せざるを得ない」ではなく「何をしたいか」、戦略は「こうなるだろう」ではなく「こうしよう」という意志の表明だと著者は言います。

これも非常に耳が痛い話。事業の成長を考えるとグローバル化せざるを得ない、ビジネスモデルを転換せざるを得ない、果てには新規事業を考えざるを得ない、といったことさえ社内で話されることがあるのではないでしょうか。

コンサルティング会社マッキンゼーの中興の祖であるマービン・バウワーも、名著『マッキンゼー 経営の本質』で次のように言っています。
「経営の意思」の重要性はいくら強調しても強調しすぎることはない。システムとして経営に取り組み手法は既に盛んだが、多くの企業で効果的に実行されているとは言い難い。「経営の意思」が発揮されてこそ、経営システムは価値あるものになる。
これ、1966年の著です。昔からこの点は普遍的な問題のよう。

上述のような点に、分析的なモノの見方だけでは捉えきれない経営の肝のようなものを感じます。もちろん客観的にファクトで物事を捉えることはベースとして重要であることは言わずもがなですが、「良し悪し」や「せざるを得ない」で物事を分析的にデジタルに判断をすることは、ある意味で(一定のスキルの人材を揃えれば)誰でもできて楽な作業かもしれません。一歩先を行く突き抜けた経営や事業運営をするには、すごく直観的(センス?)ではありますが、どうやって綜合的なモノの見方を組織として経営に取り込むことができるかが、ポイントになるのではないか。すごくチャレンジングだし面白いテーマだと思います。

2013年7月24日水曜日

誤診 -仮説という名の認知バイアス-

突然ですが、皆さんは誤診をされた経験はありますか?死亡するまで発覚しない無自覚なものが大半だと思いますが、死後に解剖を行った結果、1割以上が生前に行った診断は誤診であったという結果を発表した論文もある(3割以上という論文も。出自Wiki)そうです。これが多いと思うか少ないと思うかは人それぞれの感覚ですが、細かな診断違いやちゃんとした医師にかかれば原因がもっと早くにわかったのにという広義なものを含めると、もっと割合は高いのではないのかというのが実感です。

最近読んだ『医者は現場でどう考えるか』という書籍によると、そういった誤診等、医師のおかす診療上のエラーの大半は、技術や知識が原因ではなく、認知の問題が大きいそうです。つまり、知識がなかったからとか、診断する技術がなかったからとかではなく、事象の捉え方、解釈の仕方を誤るケースが大半ということです。著者いわく、誤診は医師の「思考が見える窓」だとか。

では、診療においては、どのようにしてその誤った認知や解釈が生まれるのか。

診療は大体、問診(今日はどうなさいましたか?から始まる一連の問答)の情報から始まります。検査をするもしないも、何の検査をするかも、どのような症状や傾向があるのかを患者から引き出し、どのような診断の仮説を作るのかも、全ては医師の患者への質問から始まります。

著者は、「医師の質問の仕方が患者の答えを構築する」と言っています。つまり、認知や解釈の問題がある、誤診がある場合、医師の持つ知識が正しくなく患者の答えに対する解釈が間違っているということよりも、そもそも間違った答えを引き出すような聞き方をしているということとです。一般的に、「質問すること」は相手の認知を試す(答える側がどう答えるかを試す)ことのように捉えられますが、そうではなく質問者自身の認知が試される行為であると解釈できます。

本書で著者が問題にしているのは、質問をする時点で一定のフレームに回答をはめてしまう認知バイアスです。患者に何かの症状を聞く、あるいは診断のヒントになるような日常の行動を聞く際に、「Xですか?Yですか?それともZですか?」と選択肢を規定した段階で、(それが正しければ良いですが)一定の認知バイアスがかかっており、本来であればもっと患者本位に立ち、ゼロベースであらゆる可能性を考慮したオープン質問を展開すべきと指摘します。(当然実務上、数分で患者を「処理」しないといけない実務上、全てのケースでゼロベースで診療をするというのは現実的ではないとは思います)

著者は下記のような認知バイアスを例に挙げて説明をしています。

・有用性/アベイラビリティのエラー:過去の類似した事例に照らして判断する傾向
・遂行志向バイアス:何もしないより何かしらアクションを取るたがる傾向(根拠が拾いきれていなくても何かしらの診断をつける等)
・探求の達成感:一度何かを発見すると、正しい診断を行うための探求をそこでやめてしまう傾向
・アンカリング:判断する際に、特定の情報をあまりにも重視する傾向

これを読んでいて思ったのは、仮説思考型問題解決の落とし穴についてです。仮説を持つということと認知バイアスに陥ることは紙一重で、仮説を持ちながらも予断なく情報を抽出し受け止めること、仮説というフレームにしっくりはまり込まない情報が出てきた時にそれを無視しないこと、仮説に対しては必ず検証がセットであることの重要性について認識を新たにしました。

翻って、ビジネスの現場でも、日々「診断」に近い作業をすることは多いと思います。例えば、営業の場での顧客とのやり取りを通してのビジネス判断、社内での議論におけるアイデアの選別、面接での候補者の選考、などなど。仮説を持って場に臨むことは重要ですが、認知バイアスのかかった状態で判断をしていないか、自身の質問の仕方が相手の返答や議論の方向性を誤って構築していないか、再度振り返ってみないといけないなと。誤診をしないように。

2013年7月22日月曜日

提案を引き出す力 -提案を受ける側が心がけたいこと-

ビジネスは誰かが誰かに提案(営業)しなければ始まりません。プロジェクトにしろ何かのサービス/ソリューション提供にしろ、会社間でのビジネスにおいて、「提案」のフェーズは非常に重要です。今回は少し「提案」について考えてみたいと思います。

■提案の位置づけ
提案について、単に取り引きが成立すればよいという視点は近視眼的です。実行と成果を見据えた時、問題の設定、ゴール/スコープの合意、内容の質を決めるアイデア、お互いの信頼関係、協働チームとしての役割分担など、実際に案件が走り始めてからの成否を決める要素を概ね方向づけるのが、提案というフェーズです。

例えば、コンサルティングファームのクライアントに対する提案活動は、単価(当然能力も?)の一番高いパートナーやシニアマネジャークラスが担うことが多く、提案の重みがわかります。提案に際して、お金をかけてリサーチをかけたり知見のある人を引っ張ってきたり、相応のパワーをかけるものでして、提案書そのものに対価をもらってもよいレベルなのです。なぜなら、提案において行われる「問題の設定」が、プロジェクトを進めるに当たって本来は一番重要な作業なのですから。マナーの悪い企業ともなると、コンペを装ってトップレベルのファームに提案書を出させて、その内容でもって少し安く請けてくれる(ファームからスピンアウトした人がやってたりする)ブティックファームに提案書に沿ったプロジェクトを投げるというケースもあると聞きます。

とにかく、コンサルティングに限らず、モノを右から左に流すだけならともかく、今時、取りあえずぼんやりと何かやることだけ決まっていてあとは始まってから決めましょうなんてことは滅多になく、提案の段階で相当に中身にまで踏み込んだ議論がなされることが多いと思います。提案の質がその後を決める、言い換えると、ここで何も決まらなかったり、変な方向に決まったりした場合、大きく後に尾を引くことになります。

■提案を「受ける側」も提案の質を左右する
さて、ビジネスにおける提案には、「する側」と「受ける側」があります。提案の質を決めるのは、当然提案する側の力量に大きく左右されることは言うまでもないですが、一方で、提案を受ける側の「提案を引き出す力」というのが、提案の質を高めるためには重要なのではないかと最近感じています。

上述したように、プロジェクトが決まり実行に移された際に肝となる内容が方向づけられる以上、提案を受ける側、つまりその実行によって直接的に自らのビジネスにインパクトを受ける側が、提案内容に積極的に関与していくことが求められるのではないかと思います。(社内の意思決定者に向けた)提案を一緒に作る力、と言い換えてもいいかもしれません。

■提案を引き出す力
以下に、「提案を引き出す力」として、提案を受ける側が心がけたいことを書き出してみたいと思います。私は最近はもっぱら、提案を「する側」の立場なのですが、身近なケースで、この人・企業は提案を引き出すの上手だなー、こういう人・企業とはいいディスカッションできているなー、というのをイメージして書いています。

・事前に論点を(必要なら宿題を)出しておく
何をやるかは決まっていて、RFP(Request for Proposal)を投げてあとはベンダーを決めるだけというケースは別として、プロジェクトの必要性を議論するとこから始まるようなケースで、提案を受ける側って事前の準備を驚くほどしていないです。個人的統計から言うと、事前に主体的に論点出しなどをして提案する側に宿題を出す率10%未満。

もちろん提案内容について準備をするのは提案をする側なのですが、議論の出発点のレベル感を上げるために、何を聞きたいか、議論したいか、何を判断のために準備しておいてほしいか、事前に伝えておくべきです。これら、提案する側が仮説を持って臨む力量があれば良いですが、「まずはざっくばらんに・・・」とか言いながら提案する側が何も準備していないという情けないケースもあり、性善説はそんなに通用しないと思った方がいいのではないかと思っています。

・アジェンダを明確にする
一つ目に関係しますが、提案当日に何を議論し、何をクリアにすべきかをその場で最初に意識合わせをしておく必要があります。そうでないと、一方的で的外れな提案という名の手前味噌な紹介に終始されたり、途中で話が逸れてそのまま本来とは別の話を惰性で聞いて終わりということになりかねません。

これも基本的に提案する側が用意するものなのですが、これも驚くほどアジェンダを用意していない提案者というのは多い印象がありますので、別に紙でなくてもいいので最初に主体的にアジェンダは確認するべきだと思います。「今日私たちがお聞きして議論したいことはこの3つです」みたいに最初に提示してしまうのもありかもしれません。それにちゃんと答える展開を組み立てられるかで提案者の力量を測ることも可能です。

・ビジネスのゴール/課題を明確に話す
何を成すために、何を解くために提案を受けているかをはっきりと提示すべきです。提案を聞いていて、わかっているぞ感を出すためか、いきなりテクニカルな話とか瑣末な確認を入れてくる人がいますが、そんなことは後で良くて、提案者が話す内容はあくまでも手段であり、その前に目的がどこにあるのか、その目的を達成するためにどのような提案をできるのかを、しっかりとインプットしておくことが必要だと思います。これをクリアに提示できないのであれば、提案を受けるべき段階ではないのかもしれません。

相手のビジネスや課題を理解しないままに提案をしてきて、ある日あまりに初歩的なことを理解していないことに気付いて愕然とするケースというのがあるものです。意地悪ですが「弊社のビジネスのゴール、あるいは現状の課題についてどのような仮説をベースに今回のご提案を位置づけられていますか?」というような質問をしてしまっても良いかもしれません。

・場をコントロールしすぎない
ここまでのポイントと矛盾するように思えるかもしれませんが、提案を単なる説明会ではなく、内容を高める議論をする場と捉えるのであれば、目的やアジェンダは明確に定めながらも、自由に意見を出し合えて提案の既存アイデア以上の発想の広がりが生まれるような議論が可能な場づくりが必要かと思います。上下関係を意識させるためか何なのか、単に想定外を嫌っているのか、司会進行から、説明の進め方への指示、さらには質疑応答の指名まで、自身の筋書きに沿った進行をしようと場を過剰にコントロールしようとする人がいます。そういう場では提案書の内容以上の議論の発展は生まれずらいですし、今ある提案についての粗探しで議論が逆にシュリンクするという実感があります。

・真摯に聞き、真摯に応える
知ったかぶりをしない。自身の知識をひけらかすことを目的に質問しない(内容を理解し、議論の質を高めるための質問をする)。そもそもイコールパートナーとして話をちゃんと聞く。
質問には答えられる範囲ではっきり答える(駆け引きのつもりなのか、提案の質に関わる内容を変にごにょごにょ曖昧な返答をする人多いです)。わからないなら調べて答えるようにする(多分ほにゃららな感じなど適当に返さない)。答えられないなら答えられないと言う。
全て対等に同じ目的を持って議論を進める前提条件です。なんというか、提案とか抜きにして、マナーというか姿勢の問題かもしれないですが。

・期待を語る
提案者に対して、どのような強みに注目していて、何を期待しているのかを語ることも重要だと思います。これには二つの効用があって、一つは、提案する側が、何を軸に据えて提案することが望ましいのか、競合があるとしたら何を差別化のポイントとして打ち出すことが良いのかを考えるヒントになる点です。もう一つは動機づけ効果です。そんなものビジネスを取りに来ているんだからなんでこっちが動機づける必要があるんだという考えもあるかと思いますが、結果として自身のビジネスに跳ね返ってくる内容で、大したコストもかからずに提案の質が上がるのであれば、やっても損はないのではないでしょうか。社内で部下に何か提案をしてもらう時には皆さん普通にやっていることだと思いますが、それを社外に対してもやるだけです。

・アイデアを積極的に出す
アイデアは提案する側が出すものとは限りません。当然、ビジネスのインサイダーたる受ける側の方が、よりビジネスにおけるニーズや課題解決のポイントをわかっており、このようなアイデアややり方であれば目的を実現できるのではないかという仮説は提案者以上にリアリスティックに持てるのではないかと思います。

あまり提案者のケイパビリティやイメージに縛られず、「例えばこういったことってできるんでしょうか?」という問いかけをすることは非常に有意義だと思います。そこでダメな提案者なら「うちはこれこれをならできますが、それはちょっと・・・」と紋切り型の対応をするでしょうが、目的に対してコミットして提案をしようとしている提案者なら、手段としてどのような方法(他社と組むとか)があるのか考えたり、あるいはそのアイデアに着想を得て「少し違いますがこういったことなら・・・」と提案をしてくるでしょう。

・ネクストステップを明確にする(そして、やる)
これもまた提案する側がしっかりとグリップすればよい話の一つかもしれませんが、「じゃあそういうことで(どういうことで?)」「また何かあったら教えてください」「適宜情報交換させてもらえれば」みたいな締りのない終わり方をしないことです。可能性がないならお互いの時間の無駄ですからはっきりと次はないことを伝え、条件付きで可能性があるのならそれを確認するための宿題を決め、具体的に前に進めるのであればもう一度合意した現時点での方向性を確認し進め方とタイムラインを決めるべきです。

そして、決めたら、やる。提案をする側が宿題をしないのは問題外ですが、提案を受ける側が宿題をちゃんとやらずに次の打ち合わせに臨み、「いやー実はまだ確認が取れていませんで・・・」と全く前回と同じ議論で堂々巡りをするというケースというのはよくある話です。

・不必要に大勢で参加しない
これだけ少しレベル感違う気もしますが。特に内資の大企業に多いですが、提案となるとやたらと関係者を集めて大人数で聞きに来る企業があります。そのメンタリティを考えてみると、実行まで見据えて関係者を巻き込んでおこうとしているのか、はたまた意思決定の責任を分散すること(お前も聞いていたよな効果)を狙っているのか、よくわかりませんが、そういう場というのは、非常に静か(別に注意を傾けて聞いているということではなく関心が薄いだけ)で、質疑応答でもあまり質問が出ず、出たと思えば本質に関係のない自身の立場を代表した質問で、もちろん一つの目的に向けて自由に発想を広げてアイデアを出したり議論をしたりということなど期待ができないというのが経験上の印象です。情報共有だけなら、後で個別にやりたいところです。

【番外編】
・遅刻しない、敬意を持った言葉づかいをする(などの最低限のマナー)
くだらないですが、意外と重要かも。こういう最低限のことできない人(意識的/無意識的に業者扱いしてしまう人)って意外と多くて、そういう対応を見せていると、相手も次第にルーズになります。提案する側の準備も(半分無自覚に、半分意図的に)おろそかになり、提案の質もどんどん下がります。


こう書いてみると、ビジネス上あまりに当たり前なことで普通やってるだろうという内容が多いですが、自身が「お客様」の場合、意外とこの当たり前がしっかりとできていないことって多いのではないでしょうか。文中にも書きました通り、提案をする側がパーフェクトに提案と議論を組み立てられる提案者なら気にしなくてもいい内容も多いのですが。実際はそうでもないことの方が多いですから。。

2013年7月17日水曜日

時間を売るビジネスの辿る道 -労働集約的産業化しつつあるSIやコンサルティングを例に-

突然ですが、弁護士ドットコムというサイトをご存知でしょうか。いわゆるプロフェッショナル業の最たるものである弁護士がサイトで検索できて料金表がネットで公開されている、そんな時代になっているのですね。当然、複雑な事案や(一定規模以上の)企業法務などはまだまだ取り扱えるファーム・弁護士は限られているでしょうし、その(希少)価値は薄れていないとは思いますが、大部分の一般的事案についての弁護士業務は相当コモディティ化が進んできている印象を受けました。

一般的に、誰でもできる(誰でも価値の変わらない)仕事や代わりの仕組み(機械やシステムなど)に置き換えることのできる仕事、いわゆるコモディティ化しつつある仕事というものは、どんどん値引きの対象となったり、代替事業者(国)の脅威にさらされることになります。さすがに弁護士業務はかなりローカル性の強い商売ですので、国内の小さな案件ベースに国外の事業者が入ってくることは当面なさそうですが、国内における需給のバランスや業務内容の定型化などから横比較圧力、値下げ圧力は強まると思います。

■ペイ・フォー・タイム(pay for time)への値下げ圧力
プロフェッショナル業のコモディティ化。SI(システム・インテグレーション)やコンサルティング、会計・監査などが同じプロフェッショナル業の例として想起されますが、稼働した時間に課金する、ペイ・フォー・タイム(pay for time)が基本的な価格体系であることが共通点として挙げられます。

私の周りを見ている中での印象では、ペイ・フォー・タイムで提供されている仕事やサービス、つまり時間単価/人工(にんく)を出して時間に課金している仕事やサービスというものは、大体が値下げ圧力の渦に巻き込まれているように感じます。SIにおけるプログラミングやテストといった業務などは典型ですが、最近はコンサル業界においても、話を聞く限り一部では値下げ圧力がかかっているようです。私は弁護士業務には詳しくないのでよくわからないのですが、価格が廉価になってきているという状況はあるのでしょうか。

私は、ペイ・フォー・タイムな仕事やサービスの提供をするということは、値下げ(切り)を許容したということとほぼ同義と捉えています(当然当事者はそのようなつもりは毛頭ないと思いますが)。上記のような業界では、クライアントへ出す見積もりは大体が時間単価・人工(にんく)を積み上げる方式。これってクライアントからすれば非常に勉強してもらいやすい価格体系でして、「このモジュールいらないから削って」「こんなシニアな人つけなくていいから抑えて」「ここは社内でやります」「XXさん高いよね、外してもらっていいですよ」「よそでは同じこといくらでやるって言ってましたよ」というような具合です。

■ペイ・フォー・タイムは知的生産の工業化
このペイ・フォー・タイムのモデルにおいては、プロジェクトがフェーズやタスクに細分化され、それぞれに各クラス/職種が何人日必要かというシンプルな論理で値付けがされます。価格は個人ではなく、クラス(職位)や職種に応じて付くものであり、均質なアウトプットが前提です。あまり個は重要ではない匿名な世界です。職務の細分化による知的生産へのテイラー主義の導入、知的生産の工業化、と言えるのかもしれません。

製造業(の製造ライン)をイメージしてもらえればわかりやすいと思うのですが、工業における、型を作り高いレベルで均質を保ち、生産性を上げ、コスト効率を1円単位で高める動きが知的生産にも及んでいるということだと思います。現にSI事業のオフショア/ニアショア化の流れは製造業の過去の流れを想起させます。

■かつてはペイ・フォー・バリュー(pay for value)だった?
上述したようなSIerやコンサルティング会社も、まだそういった事業者が提供する情報やノウハウ、人材に希少価値や新規性が高かった時代、価格設定は内部的に見るとコスト積み上げ方式であったかもしれませんが、クライアント企業から見ればバリューや場合によっては個々人に値段が付いていたのかもしれません。下記のようなアウトカムに対して値付けがされる、あるいはその人個人に値付けがされる世界です。

・ペイ・フォー・パフォーマンス(pay for performance)
⇒プロジェクトの結果にコミットし、誰が何時間働いたということではなく成果に応じて報酬を受け取る

・ペイ・フォー・バリュー(pay for value)
⇒他では提供のできない希少価値や模倣困難な価値を提供することで、(場合によっては言い値で)価値に対して値付けをする

・ペイ・フォー・パーソン(pay for person)
⇒グレーヘアコンサルタントや人気キャバクラ嬢のごとくバイネームでの指名買いを獲得する(同じ時間課金でも指名であることにペイ・フォー・タイムとの違いがある)

今でも、特にコンサルタントはとにかく密度高く長時間働く労働力としての価値は非常に高いですし、(事業の)時間を買うという観点で価値がついているケースもあるとは思いますが、情報の非対称性が解消され、知見がクライアント企業に取り込まれた(外部企業の提供する知見の価値が相対的に下がった)現在、提供する役務はある程度コモディティ化していると言えます。「知的」労働集約的産業と言い換えることができます。

そうすると視点が価値ではなくコストに向くのは必然でして、この流れがペイ・フォー・タイムなコスト構造を顕在化させてきたのかもしれません。こうなってきますと、価格での競争ルールが働き始め、そのことがコモディティ化を加速させるという、負のグルグルが回り始めます。

■目先の安定のためにペイ・フォー・タイムを選択しない
先のパフォーマンス/バリュー/パーソンに対して対価をもらうモデルは、個人的には下に行けば行くほど難易度が上がり、一つ上の実績が次のモデルを実現する上で必要になる要素である気がするのですが、いずれにせよこのような値付けを行う(売り方をする)ことは簡単なことではありません。反対に、ペイ・フォー・タイムなビジネスは、価格の根拠の説明がしやすいので、売りやすい(営業しやすい)という特性があります。乱暴なことを言うと、一度価格テーブルさえ決まってしまえば、あとはオペレーティブに回せるので考えなくてもいいのです。企業やプロジェクトの規模が大きくなった場合の、コスト管理のしやすさもピカイチです。

ただ、ビジネスの持続可能性、コモディティ化のリスクを考えると、理想としては上記の3つのモデルいずれかを志向する必要があるように思います。短期的な視点に立つと、ペイ・フォー・タイムな仕事は安定していてむしろリスクが少ないという見方もできるため、そちらに流される(自然な)圧力は組織にはありがちだと考えていまして、それに抗うことを常に意識する必要があります。

ペイ・フォー・タイムを個人の評価に置き換えてみてもわかりやすいです。つまり、時間いくらの世界で評価されるような人材であることをどのように考えるのか。成果で評価されないことは確かに一時を考えると楽なのですが、成果で測られないことでホッと胸をなで下ろしてはいけないと思います。確かに単年で成果が出ずクビを切られることはありませんが、それは安定を意味するのではなく、代替可能性(仕事の外出し、あるいは自身の非正社員化)や価格(報酬)下落のリスクを意味すると考えた方が良いと個人的には感じています。

ビジネスとして時間を売ること、個人として時間で評価されること、いずれも短期視点では楽なのですが、時間を売るということが必ず辿る道があるような気がしたので書いてみました。