2012年2月20日月曜日

知の巨人の言葉 -『ウメサオタダオ展 -未来を探検する知の道具-』を観覧して-


先週末、日本科学未来館で開催されていた『ウメサオタダオ展 -未来を探検する知の道具-』に行ってきました。

梅棹忠夫氏(Wikipediaの解説)は民族学者であり、著書『文明の生態史観』に代表されるような独自の文明論を展開されていたことで有名です。また著書『知的生産の技術』に代表されるように「情報」「知的活動」についての方法論者としても有名で、「フィールドワーク」「京大式カード」「こざね法」といった手法を世に広められた方でもあります。残念ながら一昨年逝去されています。

展示の様子はこんな感じ。梅棹氏が実際にフィールドワークで書き溜めたノートの展示や、情報整理ツールの再現、そしてそこかしこに展示内容に関連する氏の言葉が紹介されています。




個人的には、梅棹氏の思想に初めて触れたのは『文明の生態史観』です。地理的な整理だけで東洋と西洋でものごとを論じるのではなく、文明の発達度という観点から世界を区分し、それぞれの地域毎に気候や民族特性、宗教特性、領土特性といった共通点を見出していきます。下記の整理が有名ですが、これを見てヌオッとなったのを覚えています。(説明が不十分なため読んだことある人にしかわからないと思いますが。。)


※『文明の生態史観』より

梅棹氏の全ての論考のベースになるのが、現地での人との交流や観察を中心とした綿密なフィールドワークと情報整理であり、そこから創造されるものは誰も気付かなかった視点から来る体系(システム)の整理です。このプロセスは、今私が興味を持っているデザインでキーワードになりそうな「人間中心」「システム(系)」といったところにも近いのです。(無理矢理?)

著作を読んでから時間が経っていたので、今回観覧に行き、梅棹氏の方法論や言葉に触れたことは良い刺激になりました。下記に備忘的に気に入った言葉のメモを記載しておきます。ちなみに、平仮名が多いのは私の変換忘れではなく、原文によるものです。話し言葉のような柔らかさがありますが、ここにも現地での対話を重要視し、対談の名手と言われた故人の意図が潜んでいそうです。

・全ての情報を記録し、つなげ、咀嚼する
梅棹氏は何でもノートに記録し、独自のござね法によって情報を整理します。全ての知的活動のベースは情報にあるということを再認識。

  • かれ(ダヴィンチ)の精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかきこむこととのあいだには、たしかに関係があると、わたしは理解したのである。(筆者注:自身があらゆることをノートに記録することについて)
  • 論理的につながっているものを、しだいにあつめてゆく。論理的にすじがとおるとおもわれる順序に、その一群の紙きれをならべてみる。そして、その端をかさねて、それをホッチキスでとめる。これで、ひとつの思想が定着したのである。(筆者注:こざね法について)
  • 情報というのはコンニャクのようなもので、情報活動というのは、コンニャクをたべる行為に似ています。コンニャクはたべてもなんの栄養にもならないけれど、たべればそれなりの味覚は感じられるし、満腹感もあるし、消化器官ははたらき、腸も蠕動運動をする。要するにこれをたべることによって、生命の充足はえられるではないか。情報も、それが存在すること自体が、生命活動の充足につながる。

・完成などない。「未知なるもの」へのあくなき探求
梅棹氏の全ての知的活動の原動力は「未知なるもの」への探究心です。未知の知というと聞こえは良いですが、知の巨人と呼ばれた人が虚心坦懐、謙虚に自分の足を使ってゼロベースでモノゴトの理解に努める姿勢は学ぶ部分が多い。

  • もともと、わたしにおいては、山の高さだけが問題ではない。いちばん大切なのは、インコグニチ(未知なるもの)ということ。デジデリアム・インコグニチ(未知への探求)、これが一番大事なことなんや。学問やってても、これは一貫している。未知のものと接したとき、つかんだときは、しびれるような喜びを感じる。わが生涯をつらぬいて、そういう未知への探求ということが、すべてや。こんなおもしろいことはない。
  • なんにもしらないことはよいことだ。自分の足であるき、自分の目でみて、その経験から、自由にかんがえを発展させることができるからだ。知識は、あるきながらえられる。あるきながら本をよみ、よみながらかんがえ、かんがえながらあるく。これは、いちばんよい勉強の方法だと、わたしはかんがえている。
  • 人生をあゆんでいくうえで、すべての経験は進歩の材料である。
  • ものごとは「完成した」とおもったらおしまいでございます。完成感覚をもったら、それは墓場の入口でございます。新陳代謝がとまれば、それは死でございます。博物館に完成はありません。

少し脱線しますが、私の今気になる人、デザインコンサルティング会社Zibaの濱口氏(@hideshione)がタイムリーに最近こんなツイートを。セレンディピティ。



・知的生産とは単なる情報処理ではなく創造活動
ここは最も言語化しにくいところではなかろうかと思いますが、最も肝要な部分であるのではないでしょうか。無から有を創る、inspirationから独創を生む、発見は突然やってくる、これらは方法論を学ぶというよりも実践を通じて会得するしかないのでしょう。

  • 知的生産は、かんたんにいえば、無から有をつくりだす仕事である。
  • 独創はinspirationである。独創をいかすもころすも、そのinspirationをとらえるか、にがすかにある。このささやかなノートも、ひとえにそのようなinspirationのreservoir(筆者注:貯水池、貯蔵庫)としての役目をはたせしめたいために、折にふれて記してゆくものにしたいのである。
  • 「発見」というものは、たいていまったく突然にやってくるものである。


・世の中はシステム
世の中のあらゆる事象は、大きく転換し、関連し合い不可分となり、全てを統合的に捉えるシステム(系)的な考え方が重要になると言及されています。(しかも大分前から)

  • 地球上の一部分でおこったできごとが、ただちに地球全体に波及するという点で、地球がひとつのシステムになりつつあるのです。
  • 世のなかはハードウェアからソフトウェアへ、物質から情報へ、そして経済から文化へとおおきく転換しはじめている。
  • 文化開発などという仕事は理念づくりだけではなんにもならない。人びとはしばしば、ハードウェアよりもソフトウェアだという。しかし頭で考えただけのソフトウェアは、たちまちにしてきえてしまうのである。それはやはり目にみえるハードウェアとしての装置と、それを運営する組織とをつくっておかなければならないのである。そのためには時間がかかる。


・まだまだ人間を理解できていない
これ「人間中心」ってことですよね。これもまたなんともvisionary。

  • 人類学は、おとなのがくもんであるとともに、おとなになるための学問である。
  • 二十一世紀の人類の生きかたにおもいをはせる。
  • 地球上で地図のない地方というのは、いまではほとんどのこっていない。地理的探検という意味では、現代はもはや探検の時代ではない。しかし、人類学的探検ということになると、それはまだはじまったばかりである。


・総じて
いや、なんとも一見簡潔で一度立ち止まって噛みしめないとスルーしてしまいそうな言葉でありながら、実際は含蓄に富む言葉たちだと思います。私は全般的に、自身の関心領域であるイノベーションとかデザインとかいう文脈で捉えましたが、皆さんはどのように捉えられるでしょうか。

最後に個人的に最も難解だと思った(と言うか未だに分からない)フレーズを。大いに悩んでみてください。

しかももっとおそろしいことは時間である。時間というものは、つぎからつぎへと際限なくわきでてくる。わたしはその時間のわくをなにかでうめることができない。ただその時間をそっと、過去におくりこむ努力をつづけるしかないのである。

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